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第12話 溶けたアイス
ぼんやりと床に座り込み、うさぎのユイが自分の周りをぐるぐると跳ね回っているのをただ見ていたら、聞き慣れたバイクのエンジン音が外で聞こえた。
「柴田……」
だるそうに立ち上がり、彼を迎え入れる。尚志からは油絵の具の匂いがした。作業中だったようだ。
近頃何かの絵を仕上げるのに没頭している彼は、日曜に会ったきりなかなか話せないでいた。忙しいのはわかっていた。作業にのめりこむと、それに集中して食事も忘れるらしい。少し痩せたような気がしたが、気のせいかもしれない。もともと尚志に無駄な肉などついていない。
尚志は部屋に入るなり、「目が赤いな」と顔を覗き込んだ。
泣いたのは自分じゃない。ユイだった。
嫌で泣いたわけではない。羞恥心の為だ。無駄にどきどきしていたから、疲れた。少し寿命が縮んだのではないだろうか。
今度は尚志の周りを走り回っているユイを上手に避けながら、ぼーっと突っ立っている光の手を引いて座らせると、
「まあとりあえずアイスでも」
彼はコンビニ袋をかさかささせた。床に置かれたそれをユイがくわえて持ってゆこうとしたので、慌てて光がそれを止めに入る。
「なんか、久しぶりだな」
久しぶりと言っても、三日ぶりだ。尚志の三日間は濃い時間だったのだろう。今、どんな絵を描いているのだろうか。
尚志はへらをレーズンの入ったアイスに突き立て、口に入れている。もしかしてこれが夕食だろうか。じっと見ていた光に、尚志は脈絡もなく関係のないことを言った。
「どっか痛くされたか?」
「……え」
思わず沈黙した。
何も言ってないのに。
返答に詰まった光に、尚志は「アイス美味いよ」と自分の口の中に一旦入れてから、
「ほら」
口移しで食べさせた。
少し、溶けたアイス。
ひんやりとした尚志の唇。甘い舌が、口の中をゆっくりとかき混ぜた。あまりにも自然にそうされたので、何が起きたのかよくわからなかった。
(柴田って、上手だなあ……)
常にタイミングとか計っているのだろうか。アイスの味が薄れるほど、唇を侵される。
尚志はキスする時、いつだって目を開けたままだ。多分、反応を見て楽しんでいるのだろう。あまり激しくない、優しい感触。このまま押し倒されても、不思議ではない空気。しかし尚志は静かに顔を遠ざけた。
「……で?」
「え? えぇ? 何が?」
わけがわからず、光は尚志を見つめ返す。尚志の視線の先には、首筋に残ったキスマーク。先日彼がつけた痕が、濃くなっているのに気づいたらしい。それから察したのだろう。
「どっか痛くないのかって、聞いてんの俺は」
お見通しというわけだ。
尚志に嘘はつけない。
「……ごめん。あの」
「謝らなくていい。怒ってない」
嫉妬とか、しないのだろうか。
尚志の口調はぶっきらぼうだが穏やかに思えた。……嫉妬、しないのか。
それが何故か残念に思えた。
「腹筋がちょっと痛いだけ。あとは……一応平気」
「少し鍛えれば? 俺みたく」
軽く言って、彼は光のシャツをたくし上げると、腹の辺りをチェックした。華奢だ。確かに、少し鍛えた方がいいかもしれない。
尚志はそれ以上聞かなかった。
光がどこも痛くなければ、それで良いらしかった。悠司は多分これまで男との経験なんてないだろうから、下手なことされたんじゃないかと心配したのだろう。
しかし尚志の態度は、肩透かしを食らったような気分にさせられた。
もっと何か言って欲しかったのにと、理不尽な苛立ちが生まれた。こんなことで尚志を責めるのはお門違いとわかっている。それでも口が勝手に動いた。
「柴田はそれでいいの?」
「――あのな」
少し声を荒げた光に、尚志は困ったようにこめかみを押さえた。
「ユイが先生としてる時、僕の意識だってちゃんとあった。柴田じゃないのが、すごく、怖かった。嫌だったんだ。ユイが先生のこと大好きだっていうのもわかったけど、もう、何がなんだかわかんなくてっ。すごく……」
「光。落ち着け」
思わず立ち上がった光の腕を引いて、また座らせる。
なんでこんなに情緒不安定になっているんだろう。尚志にあたったところでどうにもならないのに。
落ち着いた声で、尚志がゆっくりと言った。
「俺のことが好きか?」
「今言ってるのはそういうことじゃ」
「いい加減認めろって。俺の方が良かったんだよな。おまえが言ってんのはそういうことだろ」
「ち……ちがぅ……し」
「違くないから」
反論が、出来ない。
尚志は唇の端を歪め、にやりと笑った。
「それとも、なんで先生にやらせたんだって、お仕置きでもすれば気が済むか?」
返答に困る。
お仕置きって、何をされるんだろう。
「おまえはどうしたい? 言ってみろ。叶えてやる」
意地悪な口調から一転、優しく囁かれた。
尚志の手のひらで、転がされている感じがする。
尚志にしてみたら、光は素直じゃなくて厄介な性格なのだろうが、それでもちゃんと受け入れてくれている。
好きだと思う。
確かに自分は尚志を好きなのだ。だけどなかなか言えない。そんなこと言えない。体を好きにされても、言葉が出ない。
焦らずに光を見つめる瞳。
尚志は急かしたりしない。多分自然に言えるようになるまで待つつもりなのだろう。
……ふと。
変な感じがした。
「ごめんね、柴田くん。ユイが悪いの」
唐突に変化した口調に、尚志はぎょっとした。
いきなり出てきたユイを目の当たりにして、ふざけているのか、人格が切り替わったのかを探るようにしている。今まで二人きりの時にユイが出てきたことはない。繭のいる店で会ったことはあったが、今は姿形も光のままだったし、あまりに突然スイッチが入ったものだから、狼狽した。
「本当はこんなこと、光は覚えてなくていいの。今日はいっぱい混乱しちゃったから、光は自分のことみたいに思ってしまったんだろうけど、多分次は平気よ。ユイの中でうまく処理出来るようにするから」
済まなそうに微笑んだ、光の顔をしたユイ。
「全部、忘れられるのか?」
訝しげに投げかけられた問いに、ユイは首を横に振った。
「他人事のように思うだけだよ。全部忘れるのは、プライマリの光が強く拒んでるから無理。色々生活に支障も出るしね」
ユイの手が、ゆっくりと伸びて尚志の頬に優しく触れた。
「光は柴田くんのことが好きなの。でも私は悠司といたい。だから面倒なことになるだろうけど、どうか怒らないで。光の傍に、いてあげて」
「――怒ってるわけじゃ」
「怒ってるくせに」
ユイは見透かしたように笑った。
「ユイは柴田くんがどんなふうに光を見てるかちゃんと知ってるよ。本当はすごく嫉妬してるくせに、押し殺してる。光はそういうの鈍いけど、ユイには隠せない」
目の前にいるユイに、正体のわからない不安を感じ、尚志は嫌な汗が出てくるのを意識した。
明らかに光とは違う、ユイ。
その存在にささやかな恐怖を覚えた。
「じゃあ、ユイは引っ込みます。……おやすみなさい」
目の前には、寝て起きたばかりみたいにぼんやりした顔の光が残った。
「……あれ、寝てた? ちょっと意識が飛んだ」
寝ていない。
尚志は痛そうに頭を抱えた。
(侮れねえ……)
上手く隠したつもりの感情を暴かれ、ユイを脅威に感じた。尚志は落ち着こうとして、溶けかかったアイスを口の中に入れた。
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