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第13話 血の鎖
董子に電話をかけられた時には、約束の一時間よりだいぶ過ぎていた。
ついユイを攻略することに夢中になり、電話をかけた頃には董子は待ちくたびれた声を上げた。
大体、こちらにも都合があるのに突然来るからいけない。しかし董子の話は聞いてやらなければならなかった。おなかが空いたというので、近くのファミレスで待ち合わせた。そういえば悠司も夕食を摂っていない。本当はユイと食べるはずだったのに、目の前のおいしそうなユイに我慢出来なくてタイミングを逃した。
「ところで、話って?」
悠司にとって嫌な話をされるのではないか、という危惧を抱いていたものの、極力明るく切り出す。ドリンクバーで体に悪そうな色をしたメロンソーダを貰ってきた董子は、ストローに口をつけながら、兄の顔色を窺った。
「なんか離婚の話が出てるみたい」
「ああ……そう」
意外ではなかった。
二十年近く結婚が続いたということの方が驚きだ。しかし、今頃になって離婚するというのも、何となく妙な話のような気がする。
「来年、私二十歳 じゃない? そしたら別れるとか別れないとか話してるのを聞いちゃって。なんか、鬱だよ」
憂鬱そうにため息をついた董子に、更に嫌な予感は募る。董子は知っているのか。まだ知らないのか。どっちだ。
「つい私も横槍入れちゃって。そしたらパパが、董子はどうする? って聞くわけ。だから私……」
董子は言葉を切った。
悠司は喉が渇いて、コーヒーを流し込んだ。少し熱過ぎた。董子は一呼吸置いて言った。
「兄さんとこに行きたいなって」
「……なるほど」
ウェイトレスが注文した料理を運んできた。会話が途切れる。皿が並べられている間、嫌な沈黙が落ちた。
確かに、部屋は余っている。離婚したら小百合は当然出てゆくだろうし、父の恋人も出入りすることになるだろう。居辛く感じることもあるかもしれない。しかし、それは。
悠司を本当の父と知っての発言だろうか? 董子の言葉からは、はっきりした確証が得られない。かと言って、問い質すことも出来ない。もやもやとしたものが心を渦巻く。
ウェイトレスがワゴンを押して、去っていった。
「兄さん、結婚はしないって言ったよね? そりゃ、ユイちゃんとか遊びに来たりするだろうけど、邪魔はしないよ。私ユイちゃんのこと好きだし、仲良く出来ると思うの。それに、ごはんだって毎日作ってあげられるし」
「父さんはなんて?」
なんだか必死な董子に、なんとか冷静を取り繕ってペペロンチーノを口に運ぶ。
「兄さんと相談しなさいって。ママも、董子の好きにすればいいって言ってた」
……小百合は、董子に執着はないようだ。
成人したあとのことだから、親権がどうのとかいう問題はないのだろうが、董子側としては小百合についていく選択肢はないのだろうか。
(俺を縛り付ける、血の鎖)
それだけの役割か、董子は。
嫌な女だ。
董子と小百合がそれなりにうまくやっていることは知っている。しかし、そこに親子の情があるのかどうか、悠司には知り得なかった。小百合のことなど、知りたくもない。しかし董子が不幸になるのは可哀想だった。母親らしくして欲しかった。
悠司の内心を慮ったのか、董子はスプーンを口に運ぶ手を止めて笑顔を作った。
「私、ママのこと好きだよ。ちょっと変わったとこあるけど、ママって寂しい人なんだよ。……でも私のことは構わずに、自分の人生歩いて欲しいから、一緒には行かない。ママ美人だから、どうせすぐに新しい人見つけるよ。そしたら私、邪魔になるもん」
「董子はいい子だな」
小百合を好きと言えるなんて、すごいと思う。娘だからだろうか。悠司には見えない小百合を、見ることが出来るのか。
……自分には、一生見えない小百合。別に見たくなかったけれど。
「一緒に、住んでもいい?」
恐る恐る聞いた董子に、悠司は思考を巡らせる。
これまでの会話を鑑みるに、董子は別に真実を知らされたわけではないらしい。小百合がいなくなるのであれば、それが董子に知れる可能性も低くなる気がしたし、何より悠司は董子を可愛がっていた。傍に置くのは、苦痛ではない。
しかしユイのことがある。
一緒に住んでいれば、いずれユイが宇佐見光と同一人物だと気づくだろう。そうすれば混乱が生じる。兄が付き合っているのが実は女装した男でした、なんてことを董子が知ったら、どう思うか。
勿論悠司の中でユイは女の子でしかなかった。しかし他人からしてみれば、それは違うように映ることだろう。
さっき抱いたばかりのユイ。
体は確かに自分と同じ男だったが、それでもちゃんと愛せた。
可愛くて仕方なかった。他の男だったら絶対無理だと思えることでも、出来た。
ユイを傷つけないように、ゆっくりと時間をかけて抱いた。そんなはずはないのに、そうされるのが初めてみたいにユイは緊張していて、すごく苦しそうだった。もっとリラックスさせてあげられたら良かったが、自分自身余裕がなかった。食らい尽くしてしまいたい欲望を抑えるのが精一杯だ。
腕の中の、吐息とせつない声が耳から離れない。ユイの感触を思い出すたび、体が熱くなる。
「さっき……」
董子の声に、悠司は我に返る。
「宇佐見くんが来てたでしょう」
「…………え!?」
思いがけない言葉に、いつもは控えめの声のトーンが上がる。董子は意味深に笑んで、メロンソーダを空にした。
「私、宇佐見くんとも仲良く出来ると思うよ。だから大丈夫」
「……董子、それは、どういう」
「私の好みは年上の男だから、取ったりしないよ。安心して。さっきはいいところ邪魔しちゃったんだよね? 大丈夫だった?」
「と、董子っ」
完全に不意を突かれた悠司は、つい地が出た。焦った顔で思わず立ち上がるが、すぐにはっとして座り直す。
参った。董子がそんなに鋭いとは思っていなかった。ばればれだ。恥ずかしくなってくる。兄としての威厳を保たなければ、と煙草に火を点け、深呼吸するといつものクールな顔に戻った。
「一つ聞くけど、なんでわかった?」
何故董子はこうもお見通しなのだろう。悠司は不思議に思う。聞かれた董子は得意げに説明してくれた。
「まず第一に、日曜の朝宇佐見くんが帰るところに出くわしたでしょ。兄さんてあんまり人をうちに上げないのに。だから何か特別な事情があるんだと考える。当の宇佐見くんはユイちゃんにそっくりで、双子じゃないけど似たようなもの、つまり本人? と私は気づきます」
「………」
「で、今日。玄関に日曜にも見たことのある男物のスニーカーが置いてあった。そしたらそれは宇佐見くんが来ている? って思うでしょう。更に、取り込み中だと言って、なんかお預け食らったわんこみたいな顔してる兄さんがいる。一時間後くらいにとか言い出すものの、結構時間が超過する。ああこれは、なんか時間を忘れるような何かをやってると思うのが筋じゃない? 対戦ゲームでもしてたのかな?」
「えっ、ああ! そのようなことだ」
「だけど鎌かけた兄さんの慌てぶりから見るに、そういう健全な理由でもなさそうだし?」
鎌をかけられたのか。悠司は毛穴がひりひりするような感覚を覚える。
「……いつもそんなこと考えてるのか?」
暇だな、と悠司は少し呆れた。
「私、推理小説とかよく読むもん。さっきもあんまり待たせるもんだから、一冊読んじゃった。あとは、兄さんの顔色見つつ、補完作業って感じ」
「董子はそういうの平気か? その、俺とユイが……」
「兄さんの人生だし、いいんじゃない」
あっさり言った董子は、ドリンクバーに新たな飲み物を取りに中座した。
しかしそれなら話は早かった。面倒な説明をする手間が省けた。董子が理解を示してくれるなら、一緒に住む上で問題はない。……いや、あるか。重要な問題点が。
アイスティーを持って戻ってきた董子に、悠司は提案する。
「董子……俺と暮らしたいというなら、条件がある」
「……な、なに?」
至極真面目な口調になった兄に、董子は緊張した面持ちになる。一体何を条件に出すというのか。
「玉子焼きに砂糖を入れるのはよせ」
実を言えば、兄が会話の間に垣間見せる不安な表情に、董子は気づいていた。
自分が何を言うのか、気になって仕方ないのだ。「あのこと」を口にしやしないかと、ひやひやしている。
兄がそれを隠したままでいたいというなら、董子も触れないつもりだった。最初はショックだったが、父親が誰だろうと、董子は董子だったし、兄が他の誰かに変わってしまうわけではない。
小百合が言った。
どうして兄と仲良く出来ないのかと問い質した時に。
――本当の父親が誰なのかを。
小百合がそれを言ったことが父にばれて、離婚話に発展したのだが、これは兄には伏せておく。
大丈夫。今まで父だと思っていた人が、祖父に変わっただけのこと。大丈夫。神崎悠司が誰であろうとも。董子の大切な兄に変わりはないのだ。これまでも、これからも。
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