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第14話 水の温度

 小百合は早々に部屋を借りて家を出て行ったそうだ。  籍はまだ抜けていない。董子の誕生日までは、小百合は神崎姓を名乗るつもりらしい。  いやにあっさりしていると思った。あの女の引き際がこんなに簡単でいいのかと、不安に感じるくらいだ。  小百合が悠司の前に現れたのは、董子に離婚の話を聞いてから一週間くらい経った、木曜の診察終了間際。  何を言われるかわからないし、他に患畜もいなかったので先にスタッフを帰らせ、診察終了の札を出す。小百合はリリの母猫であるペルシャ猫を連れてきて、診察台に乗せた。 「この子を、貰ってちょうだい」 「……は?」 「董子が可愛がってたから、あの子に」  年齢よりは若く見える小百合は、それでも悠司と関係を持っていた時に比べればだいぶ老けて見えた。ほとんど実家に帰っていなかったから、少し驚いた。年を取るのは当たり前だ。董子はもう19になる。小百合はあと数年で50代に差し掛かるはずだ。 「悠司くん……私のこと、嫌いよね」  小百合は何故か微笑んで、白い被毛の猫の背中を撫でた。  確かめるまでもない。嫌いだ。  しかしそれを言うことはせず、悠司は黙っていた。 「ねえ……『好き』はいつか消えてなくなるけど、『嫌い』は消そうとしてもなかなか消えないものよ」  楽しそうな小百合に、悠司は顔をしかめる。  何が言いたい。 「悠司くんは私の手を、水の温度みたいだって言ったことがあったわよね。覚えてる?」  小百合の冷たい手を、そのように表現したことがあったかもしれない。しかし、そんな他愛ないこと、とうに忘れた。 「手の冷たい人は、心が温かいなんて、誰が言ったのかしらね。私には、きっと当てはまらない」  よくわかっているじゃないか。  自己分析が出来るなら、少しは改善するよう努力すべきではないのか。小百合は昔から変わらない。自己中心的で、他人が自分の所為で不幸になろうとも一切気にしない。  小百合は災いの種を蒔く。それも、嬉しそうに笑いながら。水をやり、育み、破壊する。どこかで軸が歪んでいるのだ。  誰も幸せにはなれない。小百合の周りにいる者は、誰も。董子が小百合についてゆかないのは正解だ。不幸になる。 「人間関係もね、水の温度と一緒。温めてやれば信頼や愛情に変わるけど、冷えてゆけばいずれ凍りついてしまうの。私は温め方を知らない。でも、凍りついた物は、とても硬くて強いのよ。……私がトウコって名前を付けたのは、本当は凍る子っていう意味なの。……知ってた?」 「……いや」  ひどいセンスだと思った。  自分の娘に、そんな意味の名を付けるだろうか?  可愛いと思っていないのか。自分が生んだ、たった一人の娘なのに。小百合にとって董子は、単なる手段に過ぎなかったのか。  そう思うと、董子が不憫でならない。そうであって欲しくなかった。董子を愛してると言って欲しかった。もしそれが嘘でも。 「あなたに首を絞められた時、死んでもいいと思った。私を殺してしまえば、悠司くんは一生、私を忘れることなんて出来ない。董子が生まれた時、生んで良かったと思った。これであなたを繋ぎ止めることが出来ると確信した。――わかる? 私がどうして、あなたのお父様と結婚したのか」 「さあ」  どんどん悠司は無表情になってゆく。言葉も、最低限だ。そうやってどす黒い感情をなんとか心の中に押し留めていた。一度それが外に溢れ出したら、きっと悠司は戻れない。苦労して築き上げた今の自分が、音を立てて壊れるのがわかる。  小百合はそんな悠司を見つめ、勝手に一人で喋っていた。 「このとおり、私は結構年を重ねた。あなたが結婚出来る年まで待って、たとえ結婚出来たとしても、多分きっとすぐに若い子の方が良くなるに決まってるわ。男ってそういうものよ。あなたのお父様もそう。――だから、私は悠司くんのお義母さんになったの。傍で、見てるために」 「……馬鹿じゃないのか」 「そうよ。私は馬鹿なの。悠司くんが、好きで、嫌いだった。お父様によく似てた。愛したいと思う反面、苦しませてやりたかった。嫌いでいいの。その方が私を心に刻める。その方が私を、覚えていてくれる。……今は、可愛い子が傍にいるんですって? 董子が言ってた」 「それが、何か」  無愛想な悠司に、小百合はくすりと笑った。 「本当の悠司くんを知っても、その子はあなたを愛せるかしらね?」 「どういう意味だ」  ユイに何を吹き込むつもりだ、と悠司の声はいつにも増して低くなった。 「言葉通り。安心して? 私は別に何もしない。一緒にいればきっと、その子にも本当の悠司くんが見えてくるはず。それに気づかれた時、大切なものを失わないように祈ってる」  じゃあ、と言って、小百合は診察室を出て行こうとした。悠司はそれを引き止めた。  聞いておかなければ。せめて最後くらい、自分の求めている答えを出してほしかった。 「あんたにとって董子はなんだったんだ?」 「……董子?」  呼び止められるとは思っていなかったらしい小百合が、少し意外そうに振り返る。 「あの子はもう、知ってるわよ。悠司くんが誰なのかを」  質問には答えず、彼女は淡々と別のことを告げた。心臓をぎゅうと握り潰されたような気がした。小百合はもう振り向かなかった。  何も言う気になれなかった。  ――ひどい気分だ。  不意に董子の言葉がよみがえる。 (寂しい人なんだよ)  董子。 (ママのこと好き)  董子……。  あの女は、おまえのことなど見たりしない。  どこまでも性根が腐ってる。  破ってはいけない約束まで、反故にした。  そんな小百合に何がわかるというのだ。どれが本当の自分かなんて、自分ですらよくわからないのに。  小百合を殺そうとした凶暴な自分。  本当は他人が嫌いなのに、好きであろうとする自分。  偽善者の仮面を被り、うまくやってゆこうとする自分。  ……けれど、ユイの前では心が安らいだ。ユイなら、自分を救ってくれるような気がしたのだ。  だから、彼女が大切。  ユイを嫌いになることなど、多分ない。今は好きで仕方ない。嫌いな方が心に刻めるなんて、認めたくない。  小百合のことは好きになれない。好きかもしれないと思ったことはあったが、それは卑怯な手段によって踏みにじられた。小百合を信じることは出来ない。吐き気がするほど憎んでる。だから、……忘れることなど出来ない。  そういうことか、と悠司は苛立ったように唇を噛み締めた。  あの女の思惑通り。  自分は小百合に縛り付けられたまま、鎖である董子を見続けてゆくのだ。小百合が愛さないなら、悠司が愛してやらなければ。それこそが目的か。すべて計算のうちなのか。  小百合の水のように冷たい手が、悠司に触れたような気がした。  それは幻だったが、嫌な感触は消えなかった。狂いそうになった。叫びそうになった。声を上げたら二度と正気には戻れない気がした。殺してやりたい。その息の根を止めてやりたい。もう俺の前に姿を現すな。小百合が嫌い。嫌い。嫌い。  眩暈がした。  世界が歪んだ気がした。  それでも悠司はなんとか残っていた正気にすがりつき、がつんと鈍い音を立てて壁に拳を打ち付けた。 (ユイが傍にいるよ)  ――助けてくれ、ユイ。  俺の傍に。  ずっと傍にいて。  俺だけを愛してくれ。  それが無理だと知っていても、願わずにはいられない。ユイは光が作り出した幻影。偽りの存在なのに。  それでも悠司には必要だった。  診察台から降りたペルシャ猫が、悠司の足元を一度くぐり抜け、癇癪を起こしている子を宥めるかのように、優しく鳴いた。  口の中に、錆臭い血の味が広がっていった。

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