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【第3章 セルリアンブルー】第1話 後ろめたい帰省

 だいぶ日が暮れた頃、宇佐見光は実家へと辿り着いた。  もうすぐ八月になる。日照時間が長くなっていたので、完全に暗くなる前に到着して良かった。  車で来るには少し遠かったし、本当は電車を使うという選択肢もあったのだが、うさぎのユイを連れて公共の乗り物に乗るのはどうしても躊躇した。  きちんとキャリーに入れておけば多分問題はないのだろうが、ユイが大勢の気配に飲まれるのはやはり可哀想に思えたし、疲れるとは言え一人で運転している方が気楽でもあった。満員電車で痴漢に遭ったことが、過去に何度かあった。嫌な思い出だ。  知らないおじさんの息遣いと、ごつごつとした手の感触を覚えている。……それと、色々。  道中、思い出したくもないことを思い出して、光は軽く頭を左右に振った。  しかし、嫌な記憶を発掘したところでふと疑問が湧く。 (あれ、あのあと……どうしたんだっけ?)  駅員に突き出した記憶もない。勿論当時の自分にそんなことをする度胸があったかと問うと、あまりしっくり来なかったのも事実だった。かといって、おじさんの手が蠢くままに放置した覚えもない。 (まあ、結構前のことだし……曖昧)  人の記憶なんて本当に曖昧だ。光はそれ以上気にすることをやめて、頭を切り替える。  何はともあれ、好きな音楽を聞きながら、誰の目もなく大好きなユイと気兼ねなく一緒にいられる。それが自分で運転、という最良の交通手段だった。ネットで拾った曲名も不確かなシューゲイザーをスマートフォンに入れて、アパートを出たのが16時過ぎ。もう少し早く出てくれば良かった。空腹だ。  音楽を聴くのは好きだった。さっきからずっと車内で鳴りっぱなしだ。ユイがうるさがると可哀想なので、ボリュームは控えめ。  光と付き合いのある柴田尚志とも、音楽つながりで知り合った。  学年は一緒でも、住む地域が違うので接点のなかった彼と仲良くなったのは、光の友人がやっているアマチュアバンドが参加した、合同ライブがきっかけだったと思う。参加を申し込んだら通ったから、絶対来てと言われて地元でない地へ遠征した。何人かで見に行ったのに、はぐれてしまって困っていた時に尚志と出会ったのだ。それからの付き合いだ。  そんなに重要な出会いだとは、当時は思っていなかった。  ふとため息が漏れた。 (柴田が……悪い)  光には、人には言えない性癖がある。  女装癖だ。  もうすぐ成人する男が持っているにはまるで相応しくない、ロリータ服を何着も持っている。メイクをして、ウィッグを被り、ひらひらでふわふわの服を身にまとい、別の人間になる。  違和感はない。  誰も光が男だとは、その恰好をしている時には気づかないだろう。自分がすっぴんでも可愛らしい容姿の持ち主だと、光は充分把握している。客観的に自分の姿を見て、これを可愛いと思わない方がどうかしている、とさえ思っている。ナルシストだろうか。  けれど実際、光は可愛かった。  生まれる性別を間違えたかもしれない、とたまに思う。  それでも、尚志と出会わなければ、こんな趣味も持たなかっただろうに、と若干の後悔と複雑な思いを抱いている。  そうしたら、今現在自分が置かれている不可解な状況も、起こり得なかったのではないだろうか。――責任転嫁か。と、光は首をぶるぶると横に振った。  それは、責任転嫁だ。  尚志はきっかけを与えたに過ぎない。ぐだぐだ言っても仕方なかった。  今日実家に帰ることは、尚志には伝えてある。一週間くらい、と言ってしまったが、どうなることやらわからない。実家に帰るのは本当だったが、他にも予定があった。  光は嘘をついている。  尚志には言えない。  言ったら怒るだろうか。自分は怒られたくないから言えないのか、それとも、嫌われたくないから、あるいは、ただ単にどちらとも選べなくて二股をかけたいだけなのか。 (二股……だよね、結局は)  今自分は、二人の男の間にいる。  一人は尚志。美大に通う、筋肉馬鹿……と言ったら失礼かもしれない。知っている誰よりも綺麗な肉体を持った、筋肉馬鹿。と光は心の中で言い直した。同い年。……友達。  もう一人は、獣医師の神崎悠司。尚志とはタイプの違う、大人の男。だいぶ年が離れている。……こちらは、ユイの、恋人。  ユイというのは、うさぎのユイではない。  女装をした時の光の、もう一つの人格のことだった。  光は実家に帰る、と言って、悠司と別の約束をしていた。  後ろめたかった。  無金利の親ローンで買った軽自動車にユイを積んで、たまに休憩を入れながら実家に着いた頃には、すっかり運転で疲れていた。しかしユイも狭いキャリーの中で我慢していたのだから、褒めてやらなければならない。  車庫に軽をバックで入れながら、家の中を窺うと、カーテンの隙間から姉の姿がちらりと確認出来た。あちらも光に気づいたらしかった。  玄関を開けようとしたら内側から開いた。 「光、遅ぉい」  一つ違いの姉、愛莉(あいり)が、サクランボみたいに艶のある唇を尖らせて光の前に立ち塞がっていた。  立ち塞がっていたとは言っても、身長はわりと小柄な光よりも若干小さいので、威圧感はあまりない。血筋的に小柄だ。父も母も大きな方ではない。  愛莉はショートボブの髪をミルクティ色に染めていて、ああ、こういうの好きかも、と光は心の中で呟く。以前会った時は違う髪型だったが、いつヘアチェンジしたのだろう。  光の視線に気づいた愛莉は、にこっと笑顔を見せた。 「可愛いでしょ。似合うでしょ」 「うん、愛莉ちゃん、可愛いよ」 「もっと褒めて」 「可愛い、愛莉ちゃん、すごーく似合う」 「愛莉にハグしてー」  屈託のない笑顔で光に抱きついた愛莉は、すりすりと体を猫のようにすりつけた。小振りな胸が、それでもやんわりと光の体に当たっている。愛莉は昔からスキンシップが大好きで、光が小さな頃からずっとこんな感じだった。今更親も気にしないくらい、常からこうだ。  だが、こういうのはあまり良くない気もする。せめて親が気にして愛莉を止めてくれたら良かったのだろうに、微笑ましい仲良し姉弟くらいにしか認識していない。  実際、仲は良い。実家にいた頃は、愛莉になんでも話せた。  専門学校に行く為に家を出ることになったのだが、愛莉に相談した当初、ついてくるとか言って困った覚えがある。光がそれを漠然と決めた頃、愛莉は既に地元の大学に入ったばかりだったので、実際問題としてあまり現実的なプランではない。 「愛莉ちゃん……あの」 「なぁにぃ」 「僕おなかすいたんだけど」  本当に空腹だったし、ユイを早くキャリーから出してあげたいのもあった。幾分強めに主張したら、愛莉は残念そうにまた唇を尖らせた。  可愛い、姉。  大学に入って彼氏でも作れただろうか。  自分は……、 (彼女作るでもなく……)  これは愛莉に言って然るべきことだろうか。わからなかった。

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