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第7話 不自然な妥協

 昼食の後にペットショップに寄ってもらって、うさぎ用に売られているチモシーと呼ばれる牧草を一袋購入すると、それだけで結構かさばる荷物になった。ライブハウスにまでこんなものを持ち込むのはどうかと思い、早々に駅前のコインロッカーへと預け入れ、朔と一緒に色々時間を潰した。  音合わせとかもしたいと言って、少し早めにライブハウスへは向かう予定だったのだが、時間が微妙に余ったので、光は朔と一緒に彼の住むアパートに一旦足を向けた。  朔もまた、高校卒業してから一人暮らしをしている。  ただそれは遠方の学校に通うから、とかではなく、親の方針らしかった。少し苦労してみろということらしい。その流れで食事はどうしているかという話になった。 「うさちゃん、自炊してるの? えらいなあ」 「えっ、なんで……? 朔ちゃんはしないの? ごはんどうしてんの」 「んー、たまにうちのママンが冷蔵庫におかず仕込んでたり、あとは適当にお惣菜買ってきたりとかかな。米だけはかろうじて炊くけど」  ママン、という呼び方に思わず光は噴き出す。もちろん素で言っているわけではなく、ふざけているのはわかるのだが、なんだか滑稽に聞こえた。 「何笑ってるん。……あ、ほら。なんか入ってる」  冷蔵庫を開けながら、いつの間にか仕込まれたおかずを見つけ、朔はそれを手に取る。ひじきの煮たのとか、肉じゃがとか、朔自身が作るとも思えないものがラップ越しに見えた。 「俺がいない間に、勝手に出入りされるからさー、変なもんとか置けないんだよね」  朔は困ったように笑った。一体何を置きたいのだろう。 「朔ちゃん、僕の知らない変な趣味あるの」 「いや、年相応の青少年には、色々あるだろ。うさちゃんだって、あるんじゃない」 「――まあ、確かに」  言われてみればその通りだった。  今朝愛莉にも女装に使う服を見つけられてしまって、冷や汗をかいていたところだ。車のトランクにでも仕舞っておけば良かったと、今になって思う。  考え込んでいると、冷蔵庫から持ってきた麦茶が出された。ちょっと無言になっていた光に、朔の何か言いたげな視線が注がれているのに気づいて、顔を上げる。 「何?」 「……いや、うさちゃんて。可愛いなあと今更ながらに」  畳敷きの床に腰を下ろして、朔は何故かため息をつく。  なんだか悩み事でもあるような顔に見えた。そして何故、今そんな科白を吐くのだろう。  まさか、妙な展開になったりしないだろうか、と、急に光の脳裏に色々浮かぶ。  友人だと思っていた人が実は、自分に恋心を抱いていました、という経験がある。光は朔をそういう目で見ているわけではないし、これ以上ややこしいことになるのは避けたかった。自意識過剰と言われるかもしれないが、可愛い、と急に言われて何か裏があるのではないかと考えてしまうのは、多分普通のことだ。 「……朔ちゃん?」 「ちょっとちゅーしてもいい?」  ふざけた雰囲気で唇を少し突き出した朔に、光は思考を軌道修正した。これは単にじゃれついてるだけだと判断する。 「どうぞ?」  悪ふざけに乗って、そっと瞼を閉じてやる。案の定、あせったような反応が返ってきた。 「えっ……、や、あの、嘘です。やだなーうさちゃん、前はそういうこと言う奴じゃなかったのにぃ、……ちょっとスレた?」  光にそう返されるとは思っていなかった様子だ。やはり朔に他意はない。しかし「スレた」などと言われて光はなんとなくむっとする。  そんなつもりではなかったのに。 「ちっがう。朔ちゃんの悪ふざけに便乗してやっただけじゃん。そういうこと言ってると、こっちからしてやる」  自分でも何をしてるんだ、とは思ったが、光はつい売り言葉に買い言葉で、妙な意地を張った。遠のいたばかりの顔をぐいっとこちらへ向かせ……ようとしたのだが、光よりは朔の方が力があったようだ。少しの間不毛な力比べのようなことになってしまったが、最終的にそれは失敗に終わった。 「うさちゃん……やっぱちょっと、変わった気がする」  ぜえぜえ言って畳に手をついた光に軽く笑って、朔は麦茶を一気に飲み干した。  何がどう変わったのか、光にはわからなかった。  変わってゆくのは、良いことだろうか。悪いことだろうか。 (もしかして……ユイがいるから?)  ぽつんと浮かんだユイの存在に、光は少し考え込む。  二人の男の間で迷った挙句に、自分が作り出してしまった虚構の少女。どうしてそんなことをしてしまったのか、いまだによくわからない。  どうして自分とユイは分離したのだろう。  そんな簡単に、そんなことは起こりうるのだろうか?  こういうのを二重人格という呼び方の他に、なんと言うんだったか。確か……  解離性同一性障害。  ユイが自分の中に生まれたあとに、自分でも気になってインターネットで少し調べたことがある。二重人格、というか、多重人格、という言葉が気になったりもした。 (……多重、人格……)  今のところ光が把握している限り、ユイの他に誰かがいるとは認識していない。……と、思う。 (本当だろうか)  たまに途中から曖昧になる記憶。  けれどこのことを考えようとすると、不意にどこかから、「まあいいか」という思考が差し込まれる。  深入りしてはいけないことのような、唐突で不自然な妥協。今朝感じていた頭痛がまたぶり返してきて、光はぶるぶる頭を振る。 「うさちゃん?」  動悸がしてくる。  考えてはいけない。知らない方がいいから。  朔の声に現実に引き戻されて、光は動揺を押し隠した。 「なんでも、ないよ」  多分笑えたと思うが、鏡がないので自信はなかった。なんとなく目を彷徨わせて、壁にかかったカレンダーに丸がついているのが目に入る。  八月の、カレンダー。  丸がついているのは八月二日。余白に「ライブ!」と記入されている。 (……え)  背中に冷たい物が走る。 「朔ちゃん、ライブって、明後日じゃないの……?」 「は? 何、休みボケ? 今日だよ。ほれ」  朔は何を言ってるんだという顔で、光の前にスマートフォンの画面を提示する。  朔と他のバンドのメンバーが映り込んだ待ち受けには確かに、「08/02」という文字が、表示されていた。  光が実家へ帰ってきたのは、七月三〇日。それは昨日のことだ。今日は七月最後の日、のはずだった。昨夜悠司と電話で話して、二、三日実家で過ごす、ということになって、今日朔と約束した。  今日は七月三一日でなければならない。八月二日であるはずがない。 「あの……朔ちゃん、ちょっと……電話一本させて」  顔色が悪くなっていたのかもしれない。朔は心配そうに顔を曇らせたが、とりあえず悠司に電話しなければならない。朔の前ではかけられないので、部屋を出ようとしながら、発着信履歴から悠司を探そうとして、また止まる。  悠司と、朔に、こちらから二回電話している。  光は一回ずつしか把握していない。そして光のスマートフォンの日付もやはり、八月二日になっている。  やはり何かがおかしかった。  日付がおかしいのではない。おかしいのは、自分の認識だ。  頭痛がひどくなった気がした。

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