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第8話 記憶の空白
朔のいるプラグラインが出演する、小ぢんまりとしたライブハウス。
今夜の対バンは他に二組いて、朔たちの出番は真ん中だと聞いた。朔はさっきからベースを握って、他のメンバーと音合わせをしている。プラグラインはスリーピースバンドで、ボーカルがギターを兼任し、朔のベースと、もう一人ドラムスの三人で構成されていた。
まだ客は入れていない。時間前だ。
光はそれを端っこに座り込んで、ぼんやりと見ていた。
今現在この身に起こっている現象を、理解出来かねていた。
少し前に、朔のアパートのカレンダーを見て気づいてしまった、ほぼ三日間の記憶の空白。実家へ帰ってきたのは昨夜だと思っていたのが、本当は違っていた時の焦燥感と言ったら半端ない。
悠司との約束は一体どうなったのかも気になり、電話で話した。
光のコールに三回ほどで出てくれた悠司は、別段何かに違和感を抱いている様子もなく、至って普通だった。大人の男の、落ち着いた低音ボイス。恋愛感情等は抜きにしても、光はこの声が好きだった。
「あの……先生。僕、前回なんて言ったか、ちょっと確認したくて」
「ああ、明日の朝、駅で待ち合わせするんだよね? 二回目の電話でその確認をしたけど……どうした? 都合悪くなった?」
「や、違くて……先生、僕その時何か……変じゃありませんでした?」
光は悠司のことを、先生、と呼ぶ。
うさぎのユイを診てもらっている、かかりつけの獣医だからだ。女の子のユイは彼を「悠司」と名前で呼ぶが、光にしてみれば「先生」のままだった。光である時には、彼もその呼び名であることに不満があるわけではないようだ。
妙な関係だ、と思う。
「別に変じゃなかったよ。ただ、うっかり忘れるといけないから、念の為前の夜電話してくれとは、言われたけど。今確認したから、いいかな?」
「そう……ですね……」
そんなことを喋った覚えはなかった。
やはり自分の知らないところで何かが動いている。何か……というか、誰か、だ。
光の知らない誰か。もしそれがユイなのであれば、問題はないだろうか? と考え、いや、ユイだとしても問題だ、と結論付ける。記憶が三日も飛ぶなんて、どう考えてもまずい。
「明日の九時で、大丈夫かな。駅の西口で、待ってるから……ユイ」
「あ……の、ごめんなさい。ユイじゃなくて」
電話の向こうで、ユイと呼ばれてふと罪悪感が湧く。
どうしてユイは、こっちに来てからずっと出てこようとしないのだろう。勿論悠司のいない場所で出てきても仕方のないことだし、実家でユイにシフトしてしまったら、それはそれで問題なのだが、電話する時くらい、出てきてもいいのでは……と光は思う。
光が気にしたのを察したのか、悠司は苦笑いした。
「こちらこそ、悪かった。……光くん。じゃあ、また明日」
「――はい」
それで会話は終わった。
悠司はいつの間にか光のことを、宇佐見くんとは呼ばなくなった。あまりにも自然に呼ばれたので、いつから変化したのかは判断出来なかった。ただそんな瑣末な問題は、今はどうでも良い。
(つまり……こういうこと?)
光でない誰かが、光の三日間を消し去った。
悠司や朔と勝手に通話して、予定を上手く調整し、あわよくば光に気づかれないままやり過ごそうとした可能性。
そいつの思惑通り、悠司から待ち合わせ前日の夜……つまり今夜、電話があって、じゃあ明日の朝待ち合わせ、と言われれば、ああそうかとスルー出来たかもしれない。理由なんて適当につけて当初の予定をずらし、朔とも三日後の同じ時間に同じ場所で待ち合わせをする。
振り返ってみれば、朔との会話は少しおかしかった気がする。別に今日でも良かったけど、と言わなかっただろうか? それは単に、実家に帰ってきてから突然連絡を寄越した光に対する科白だったと思ったが、実は違ったのではなかったか?
なんだか怖くて、朔には確認することが出来ない。朔は光が二重人格(あるいは多重人格)であるなんて、知らないのだから。
どうしたら良いのかわからなくて、もう一本だけ電話をしようとしたが、止まる。
(柴田に……言ってどうする)
勿論、自分の込み入った事情を把握している柴田尚志に相談する、というのもありだとは思う。しかし悠司との約束を秘密にしているのもあって、上手く説明出来そうになかった。それでも光は尚志に電話した。
声だけでも、聞きたかった。
「……うん、そう。柴田は? ……ん、またね」
本当に聞いて欲しいことは心の奥底に仕舞い込んで、つまらない世間話だけしてすぐに通話を切った。さっきから急に様子がおかしくなった光に、朔は案の定心配して突っ込んできたが、結局は有耶無耶にした。
「ね、うさちゃんていうの?」
ぼんやりしていたら、いつの間にか光の隣に、プラグラインのギター兼ボーカルを担当している男がにっこりと座り込んでいた。
ちょっとびっくりした。
「――えっと」
「朔がそう呼んでたからさ。可愛い呼び方だなーと思って。俺もそう呼んでいい?」
ライブに来たことは何度もあったし、朔のいるバンドだからボーカルの顔は勿論知っているのだが、深く面識があるわけではなかった。確か、朔と同じ大学に通っていて、同じ学年だが年は上、と聞いたことがある。
ちょっと黙り込んだ光の態度をどう取ったかは不明だが、彼は自己紹介していないことに気づいたのか、軽く名乗った。
「俺のことは、眞玄って呼んで。辻眞玄 」
「眞玄……さん? 僕は宇佐見光です」
「呼び捨てでいいよ。あと、敬語とかなしで。そういうの、俺苦手だからさー」
笑顔を崩さない眞玄は、結構な軟派臭が漂うイケメンだ。女の子のファンとかついているんだろうなあと思いながら、光も曖昧に笑みを返す。今はしゃがみ込んでいるから良くわからないが、長身な方だろう。さっき軽く歌っているのを見た限り、朔よりも大きかったから。
「ああっ、眞玄! ナンパしないでくれ!」
ドラムスの男と何か喋っていた朔が気づいて、なんだか慌てた声でこちらへ走り寄ってきた。
「違うよー朔。俺うさちゃんとお友達になろうとしてんの」
「……あっそ。うさちゃん、気をつけろよ。眞玄はほんと見境ないから。可愛い子は性別関係ないから」
なんだか拗ねたような言い方に聞こえ、光はぴんと来る。
もしかして、これは、
「朔ちゃん、もしかして眞玄さんと付き合ってるの?」
「――んなっ」
何気なく口にしてしまった地雷に、朔の顔が瞬間引きつって固まった。眞玄は何故か交際云々ではなく、「さん」付けした方を指摘する。
「眞玄さんじゃなくて、眞玄でいいってばあ。俺のことはタメだと思っていいから」
「え……いや、でも……じゃあ…………ま、眞玄」
「そうそうそう。あ、でね。俺と朔は別に付き合ってないからね。な、朔ぅ」
軽く朔の方に視線をやり、眞玄はにやりと不敵な笑みを浮かべた。朔はちょっと眉をしかめたが、すぐに「ああ」と返した。
「あれ、違ったんだ……」
そんな雰囲気が見て取れた気がしたのに、外れた。
光は自分自身が男と付き合っていたりするから、そんなふうに思ってしまったのかもしれない。普通は男同士で付き合ったりとかは、あまりないのではないだろうか。
「あれぇ、でもうさちゃんそういう発言するってことは、もしかして、男同士とか、許容範囲かな? 嬉しいね。俺は可愛い子は皆大好きだよ」
眞玄はなんだか曲者だ。どう返事して良いものか迷って、光はまた、曖昧に笑った。朔がその発言にいらっと来たらしく、不機嫌そうに背中を見せる。すたすたと無言で、手持ち無沙汰にしているドラムスの方に行ってしまった。
やはり何かあるのかもしれない。
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