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第10話 大人の男

 実家の家族に留守中のうさぎの面倒をしっかりと頼んで、光は悠司との待ち合わせ場所である駅の西口に向かった。  実家から女装してゆくわけには行かない。ごろごろと引いているスーツケースの中に、大事に仕舞い込んである。約束の時間よりも少し早めについたが、悠司は既に駅前で待っていた。いつも乗っている黒いセダンの横で、ただ突っ立っているだけなのにさまになる。  動物病院での彼は常に白衣に眼鏡というスタイルだが、今は当然のことながら白衣は着ていない。ラフな着こなしは落ち着いていて、眼鏡も薄い色のサングラスに変わっていた。普段とは少し印象が違う。  長身で男前の悠司は、遠くからでも結構目に付いた。尚志が以前悠司のことを「正統派色男」と評していたが、光もその通りだと思う。元々資産家の家柄らしいということは、彼の妹を通して聞いたことがあるが、開業獣医で収入もそれなりにある上に、このルックス。非常に女性にもてそうなのに、何故か問題を抱えているユイを選んだ男。  今年で35と聞いているが、これまでに結婚を考えたことはないのだろうか。ユイの心は確かに女の子で、見た目も可愛らしくても、服を脱げば女ではないのに。結婚なんて出来ないのにな、とたまに光は思う。本人を前に言ったことはない。 (――ユイ、出てこないの?)  心の中で、女の子のユイに呼びかける。けれどやはりユイはまだ引っ込んだままで、光が悠司に挨拶する羽目になってしまった。 「せ……先生、おはようございます。あの、本当に今回は色々と、申し訳ないというか」  ぺこんと頭を下げた光に、悠司は何度か瞬きをする。 「なんで謝るの?」  どうして謝罪されるのかわからない、というふうににっこり魅力的に笑って、悠司は助手席のドアを開けて光を促した。 「や、だって。ユイじゃないから……多分、二人きりになったら出てくるんじゃないかなーって……」  しかし悠司は別段問題がなさそうな顔だ。 「まあ今はいいよ。気にしないで。……行こうか、光くん」 「は、はい」  自分も運転席に乗り込み、悠司は緩やかにアクセルを踏んだ。  ユイとして何度か助手席に座ったことはあっても、光の時には、乗ったことのない車だった。  それにしてもどうしたことだろう。まったくもってユイが出てくる気配がない。  実家に帰ってきてからというもの、ただの一度もユイの気配を感じることが出来ない。そんなことはないはずだが、光のアパートにユイの心を置きざりにしてきてしまったのではないだろうか。あるいは慣れない土地だと、出てこないとか……。 「光くん、大丈夫? 君がユイじゃない時でも、俺を頼りにしてくれていいんだよ。俺にとっては、君も大切だ」  どこかおかしい光に気づいたのか、悠司が優しく言った。  自分の恋人であるユイではないのに、こんな言葉をかけてくれる。隣の座席に腰掛けた彼は、光の手の上にそっと自分の手を載せ、少しの間軽く握った。  悠司の体温は、尚志の体温とは違う。  何故だかどきんとした。彼に恋しているのは自分ではないのに、どうして鼓動が早くなったのか。  現在発生している悩み事を彼に打ち明けたら、少しは気が楽になれるだろうか? そもそも悠司だって、光の厄介な問題は、充分に把握しているのだから。  うさぎの健康管理やら、他愛もない世間話をしながら時間が過ぎていったが、車が高速道路に乗り単調なストレートになったのを機に、やっと光は切り出した。 「あの、先生、僕……先生にかけた二回目の電話って、多分、僕じゃないんです」 「――ああ、あれね」  何か思い当たったように、悠司が呟いた。  固い表情は悠司に向けられることはなく、俯きがちになっていたが、相手の反応にふと顔を上げる。 「やっぱり何か、変でした?」 「いや……俺には、光くんに思えたけど。ただ、三回目の電話の時の、君の反応がね、どことなく」  三回目、というのは、朔のアパートで日付の相違に気づいたあとのことだろう。光自身が確認の電話を入れた。 「全然、覚えてないんです。……三日くらい、僕の中には存在しなくて。あと……昨日の夜もちょっと、記憶が繋がってないとこがあったり……」 「ユイが出てきてたわけじゃなく?」 「多分……違うと思う……」  空白の三日間はともかくとして、昨日はユイが出てくるような場面は、なかった。ライブハウスに行って友達の演奏を聴いたり、その後眞玄と意味不明のやり取りをしたくらいだが、ユイが出てきてもどうにもならない。いきなり女の子の人格に切り替わったら、友人達が困惑するだろう。 (そういえば……眞玄さん……)  呼び捨てでいいと言われたものの、やはりなんとなく呼び捨てには出来なかった。そんなに親しい間柄でもないし、一応は年上だ。  別れ際連絡先を交換したことを思い出し、光はなんとなくスマートフォンの電話帳をスクロールする。  辻眞玄、と表示された一行は確かに昨夜追加されたものだった。  こちらから連絡することは、多分ないのではなかろうか。けれど、インストールされていたSNSアプリにも、勝手に電話番号で眞玄がお友達に追加になっていたりして、なんだか複雑な気持ちになった。タイムラインに、昨日のライブのこととか、自撮り写真とかがアップされていて、それに反応してくれる人が結構な人数ついていたりとかもわかってしまい、眞玄のナンパな性分が滲み出ている。  相談とはなんだったのだろう。  自分のことだけで手一杯なのに。尤も相談なんてのは単なる口実だったかもしれないが、今となってはわからない。 「先生、もし……僕が、」  なんだか暗い声の光に、運転中の悠司はちらりとだけ視線をやり、急かすことなく「うん」と相槌を打つ。 「僕とユイの二人……二重人格、とかじゃなく……たとえば、僕の中に、三人とか、四人とか、もしかしたらもっと……僕の知らない誰かがいたとしたら、先生はどう思います?」 「――光くん、その話は向こうでゆっくりしようか」  面倒臭いことを言い出した自覚はあった。嫌な話題だったろうかと不安になっていたら、すぐに悠司が付け足した。 「きちんと君の目を見て喋りたい。運転の片手間に話す内容では、ない気がするから」 「……はい」 「なんだか疲れてるみたいだから、もし眠かったら、寝てていいよ」  心地好い低音で優しく言われ、光はまた、「はい」と繰り返した。不安が少し緩和された気がした。  悠司は、大人だ。 (柴田とは、違う)  尚志に言ったら、どういう返事が返ってきただろうかと考えたが、やはり切り出しづらかった。  光が遠く離れた地にいる今、彼は一体何をしているだろうか。多分絵を描いているだろうな、と思ったが、少しだけ他の可能性も考えていた。 (もしかしたら、浮気してるかも)  尚志は誤魔化せていると思ってるだろうが、彼の下半身がわりと節操なしなことに、光はちゃんと勘付いている。尚志がショタコンで、そういう男が大好物なのも把握している。手近に自分以外のそういう対象がいたらきっと、うっかり手を出すに決まっている。  尚志がいない時に他人からそれとなく聞いた、これまでに蓄積された行動パターン。結構簡単に、本当にスポーツ感覚で他の男とそうなっていると、聞いたことがあったから。  しかし浮気、という単語には違和感があった。友達でありたいと願ったのは自分なのに、尚志を自分だけに縛り付けるのは、我儘でしかない。悠司とのことがあるから、余計にそう思う。 (ほんと、面倒臭い……)  もっとシンプルな関係だったら良かったのに、と考えながら、光は目を瞑った。

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