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第11話 セルリアンブルーの鳥篭

 セルリアンブルーに染まる高い空、どこまでも続いているようにも見えるそれは、実際には閉じた空間だ。  ここから出ることは叶わないのだと、ここにいる誰もが知っている。ここはいわゆる、光の作り出した鳥篭のようなものだ。 「いつまで、そうしてる気だよおまえ」  手を伸ばしても、どんなに叫んでも、脱出することは不可能だ。彼らのプライマリが存在し続ける限りは。けれどその存在が消えたら多分、自分達もこの世から永遠に失せることになる。  意識の檻。  心の澱。 「別に俺は、いいよ? おまえなんかいなくなったって、一向に構わない。だけど、ちょっとだけ出てこいよ。……ユイ」  あえて淡々と、隅っこで固まっている少女に声をかける。光の顔をしたそれは、光ではない。  アオイと呼ばれている。  愛莉がつけた名前。光の中に密かに存在し続けた、もう一人の男だ。ユイが生まれるよりもずっと昔から、光と共棲している。  光は、気づいていない。  たまに気づきそうになっても、上手く隠れる。記憶を捻じ曲げて、周囲を巻き込んで。その方が自分達にとって都合が良いから、そうしている。アオイは自分が光よりも強いという自覚がある。プライマリに成り代われるかもしれないとさえ思っている。  小さくなっていたユイが、顔を上げる。これもまた光の顔をしているが、光ではない。 「アオイは……乱暴だから嫌い」 「嫌いで結構。ただこのままだと、話が進まない。俺の提案は納得したはずだ。おまえにとっても、悪い話じゃないだろ」  一旦顔を上げたユイは、冷たいアオイの視線にすぐその顔を逸らす。  光に秘密で、話し合ったことがある。  確かにそれは、将来的には良いことなのではないかと、ユイも思う。けれどそう上手く行くものだろうか? 失敗してとんでもないことになるのではないか、という怯えがあった。  だから、悠司が目の前にいても、なかなか出てゆくことが出来ない。光は不審に感じているだろう。その空気は、ユイにも伝わる。 「……でも、アオイ」 「あ?」  聞こえないほどの声で呟いたユイに、アオイは確かに乱暴に聞こえる態度で返した。その口調に、またユイが縮こまる。 「愛莉ちゃんのことは……どうするの……?」 「そんなのおまえに関係ない。愛莉のことは俺が考える」 「だけど」 「うるさい。黙れ。おまえはとっとと、悠司のとこに行けばいいんだよ。俺の言うとおりにしてろ。おまえを殺すのなんて、俺には容易い」  アオイの手がユイの背中を強引に押した。  がちんと音がして、一時的に檻が開放された。  ユイのいなくなった鮮やかな青の奥で、アオイは光の中にある過去を反芻する。この空間を染める色は、あの時の青空が固定されたものだ。以前はこんな色じゃなかった。  天気の良い、あの日。どこまでも青かった空を覚えている。  光が尚志に初めて、体を開いた日。  彼が光をモデルに、絵筆を握っていた。体の関係を持ってもやっていけそうだと、光が自ら提案したのだ。尚志のことを知りたくて、自分の気持ちも知りたくて、そうすることを選んだ。  アオイにしてみれば、それは非常に余計なことだった。  あの男を好きになることは、許せなかった。友達なら許容出来ても、恋人関係など築かれるのは絶対に許せない。光がどう思おうとも。 「あのさ……光って、呼んでいいか?」  今までずっと上の名前で呼んでいたのに、尚志は照れもせずに簡単に光の名前を呼んだ。  なんとなくむず痒い、慣れない響き。一階に尚志の母がいるのは知ってる。何か用があって二階に上がってくるかもしれない。光は元々は絵のモデルをする為に来ただけであって、こんなことをしに来たはずではなかった。  何をされるのかは、光もなんとなくわかっている。一度尚志に、押し倒されたことがあるから。  あれは雨の夜だった。  今は、昼間だ。部屋の開け放たれた窓から見える晴れ渡る空は、眩しく輝いている。たまに通る車の音や人の気配。それに気づき、窓を締めてくれないだろうか、と光は今更ながらに思った。誰かに聞かれたりしたら、恥ずかしいから。  自分から提案したはずなのに、心臓がすごく早くなってきたのがわかって、そればかり気になってしまう。返事のない光に、「聞いてるか?」と尚志は唇の上を指の腹でそっと撫でた。画材独特の匂いが鼻をくすぐり、我に返る。 「う、ん……いいよ。呼んでくれて」 「真に受けていいんだよな? さっきの発言。やっぱ嘘、なんて言わないでくれよ?」 「言わないから……柴田の好きなように、……してみて?」  自分の科白に、顔が赤くなってくるのがわかった。尚志は楽しそうな笑みを見せて、光のことを軽々持ち上げると、優しくベッドに上げてくれた。そこで初めて窓が開けっ放しなのに気づいてくれたらしく、からからという音がして外のざわめきが遠くなった。 (やめてくれ)  アオイは目を伏せる。  尚志のことは嫌いだ。光を惑わすから。  あの男は光の相手にはふさわしくないと、本能が告げる。  光のことだけを、ずっとずっと好きでいるような男ではない。傷つけるに決まっている。  自分が出て行って、今すぐに光を止めたいのに、どうしてか出来なかった。今まで光が、自分の力で解決出来ないような事柄にぶち当たった時はいつだって、アオイが出て行って解決してやったのに。どうして、と思う。  尚志の体温が、光を侵食する。  向かい合うようにして、膝の上に乗るような体勢を取らされている。この格好だと、体格差がすごくわかる。尚志の逞しい体は、光の目にはすごく色っぽく映る。きれいな、男の体。それにすがりつくようにして、快楽を追う。 (大好き)  言葉に出来ない、単語。  光の心に強固なストッパーのようなものがあって、尚志には言えない。それはきっと光の中にあるアオイの拒絶が、無意識に流れ込んでいるのだ。 (どうにでもして欲しい)  ゆっくりと体を揺さぶられるが、自分の体重もかかっているから、余計に苦しくなる。侵されている部分がすごく熱くて、光の息は切れ切れになる。  尚志が自分の中で大きくなってるのがわかる。目の前にある顔もなんだかせつなくて、胸が締め付けられる感じがした。 「なあ……光」  唇をついばまれ、呼ばれる名前の響きに、気持ちがきゅんきゅんしてしまう。そんな光に気づいているのかいないのか、尚志は笑顔で一度ぐんと突き上げた。不用意に声を上げてしまい、恥ずかしくなる。  さっきから、焦らされている。  本当はもっと動いて欲しいのに、挿れっぱなしでたまに動くだけで、体が疼いて仕方ない。初めてだから遠慮している、というわけではなく、本当に焦らされている。おかしくなりそうだった。 「ぁ、ぅ……柴田……っ、ゃだ」 「悦いんだろ? もっとして欲しいだろ? だったら、」 「や……」 「変なとこで頑固だな」  尚志は眉を寄せて、またゆっくりと、光を穿つ。彼が欲しくて、無意識に締め付けてしまう。尚志の表情が、少し苦しそうになる。 「あんまり、締めんな」 「だって、柴田がっ。意地悪言うから……あ、あっ……もぅほんとに……」  思わず自分で腰を動かしてしまう。そんな光に、尚志は可愛くて仕方ないような目を向けたが、もう一度催促を繰り返した。 「だったら、さっきの。先生と二股するっての、撤回してくれよ」 「……それは、無理……っ」  やむをえない事情により、祐司と二股っぽくなる、なんて堂々と宣言された尚志としては、やはり不本意らしい。どうにかそれをやめさせようと、こんな風に焦らされている。焦らされて焦らされて、頭も体もどうにかなってしまいそうなのに、光は承諾することが出来ない。まだ詳しい事情を知らされていない以上、それは仕方のないことなのだろうが、光にしてみれば簡単に頷いたりは出来なかった。  尚志が、光のいいところを手のひらで擦る。大きな手に包まれて、濡れている先端を弄られると、どうしていいかわからなくなって、また声が出る。 「なんでそんなに頑ななんだか」 「も……柴田……お願い……っ」  頑固に見える態度に、尚志が少々呆れているのがわかった。けれど何か流れを変えないと、膠着状態が続くのだと悟った光は、一体何を言ってるんだと顔が赤くなってくるのがわかったが、震える声で囁いた。 「ね、柴田のが……っ、もっと、欲しいんだよぉ……っ」 「……そう来たかあ」  あからさまに求められ、尚志は少しびっくりしたが、すぐに嬉しそうに光にキスを落とした。ことを始めてから、何度キスされたことだろう。目を開けたままされる、優しいキス。 「とりあえず、今日はその科白で妥協してやるよ。……そういやうさぎって、性欲が強いらしいな。おまえも可愛いナリして結構、アレだよ」  光の体を横たえるようにして、脚を掴み上げると、尚志はようやく、動き始めてくれた。  意地悪だ……と思った。  初めてなのに、こんなふうにじりじり攻めるなんて、尚志はひどい男だ。そして初めてなのに、こんなにたくさん感じてしまっている自分も、相当な淫乱だ、と思った。 (――やめてくれ)  アオイは苛立ちを隠せずに、唇を噛み締めた。  思い出したくないのに。尚志とのセックスなんて。  初めて尚志とどうにかなりそうになった雨の夜も、アオイは出ていけなかった。あの時に自分が止めていれば、光は尚志に対して恋愛感情なんて持たなかったのではないか。そんな気持ちに気づく前に、対策を取っていれば。そうすればユイだって、生まれなかった。  アオイが出ていけないほどに、尚志を好きなのか。  邪魔するなと言いたいのか。  今までどれだけ守ってきてやったと思っているのだ。……そう考えてから、光は自分を認識していないのだと、すぐに思い出す。  アオイにとって尚志は、脅威になる。  排除しなければならない存在だ。その為には……  ――ぱちり、  と閉ざされていた光の瞼が開かれた。  高速道路を下りて一般道を走り、神崎家の所有する別荘にそろそろ到着する頃合だった。ぼんやりと見知らぬ風景に目をやり、光は悠司の方を向く。 「悠司……おはよう」  女の子のユイの表情で、光は微笑んだ。

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