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第13話 セカンダリ
アオイ、という初めて聞く名前。光は把握していないが、ユイは把握しているのだと思ったら、なんだか変な感じがした。
「ごめんね悠司……ユイは、あまり、このことについて言えない」
ユイはすまなそうに呟いて、火の消えてしまった鍋の前に戻る。そんな態度に出られると、悠司としても突っ込んで話してゆくのが難しくなり、かと言って放置するのも気持ちが悪い。どうしようかと考えていたら、ふとユイの口調が変わった。
「だから、ちょっとだけ今からアオイにシフトするけど。光には絶対言わないでほしい。これはきっと、あんたにも悪い話じゃない、悠司」
再度火を点けてこちらを向いたのは、どうやらユイではないようだった。
先ほど見た写真の男、……アオイ、なのだろうか。
光もユイも、悠司に対して「あんた」なんて言わない。
悠司は深く溜息をついて、かけていた眼鏡を少し外すと目頭をぎゅっと押した。
「――聞こうか?」
「とりあえず悠司はパスタソース作りながらどうぞ。俺は麺の茹で加減見てるから」
くすりと笑い、アオイは鍋の中で踊っているパスタを一本取り出して、固さのチェックなんてしている。そして先ほど眞玄から来たメッセージに軽く返信を入れて、スマートフォンをテーブルに戻した。
そんなことをしている場合なのだろうかと思ったが、空腹も手伝って、仕方なくミートソースを作り始めながら、アオイの言葉に耳を傾けることにした。
「えーっとね、俺はアオイ。光のセカンダリ。弱っちいあいつを守ってやる為に生まれた人格だ。あいつ困ると、現実逃避する癖が昔からあってね」
「セカンダリ?」
「主人格の光がプライマリ。副人格の俺達はセカンダリ。とりあえずそういうふうに区別してる。……まあ俺は、光の記憶とか多少弄れるくらいには、強いけど」
確かにアオイの態度は、ちょっと煮え切らないところもある普段の光とは違って、きっぱりとしているし、彼より力がありそうではあった。
「……しかし俺は、今までそんな存在には気づかなかった」
「そんなん、呼ばれなかったから。悠司といる時はユイが出張ってたし、俺も男には興味ないし。――あ、ソースぼちぼち出来る?」
どうでも良いことのように言って、「こっちもそろそろいいかなあ」とパスタをお湯から取り出してはオリーブオイルなんて絡めている。
同じ光の顔なのに、どうにも印象が違いすぎて、悠司は軽く困惑した。光からユイに変わる時は、こんなに困惑しなかったように思う。
「光はさあ、優柔不断な上に、結構惚れっぽいし、あんたも好きなら尚志も好き、あげくは愛莉……実のお姉ちゃんの我儘にまで流されちゃうようなボンクラなんだよ。愛莉の件は、やっぱ世間的に見たら近親相姦になっちゃうし、光にとっては暗部だから、うまーく俺が調整してやってたんだけど」
「……え、ちょ」
何を言っているのかと耳を疑う。
「冷めるから、とりあえずミートソース食べちゃおうか」
アオイのペースに巻き込まれて、言われるままに皿に盛ったそれをテーブルに運ぶ。しかしさらりととんでもないことを聞かされた気がする。
「近親相姦……って」
「心配しなくても平気だよ。ちゃんと避妊はしてるし、光は覚えてない。愛莉だって表沙汰になるのはまずいって理解してる。――気持ち、悪い?」
突然思ってもみなかったことを言われて、悠司は沈黙する。しかしアオイはフォークをくるくる動かしながら、ミートソーススパゲティを勝手に食べ始めていた。
悠司はなんと言ったら良いのかわからなくなり、とりあえず感情論とはまた別の視点から物を言う。
「人間でも、他の動物でもそうだが、遺伝子が近いところで交配をすると、弱い個体が生まれたりする。奇形の確率も上がる。そういった理由から、近親相姦というのは社会的にタブー視されているし、無意識、あるいは刷り込みによって、お互いそういう関係を避けるんだと思う」
「だから、避妊はしてるってば。子供を作る気はない」
「……そういうことになってるのは、光くんの意思なのか?」
「いや、まあ、それに関しては愛莉が一番悪いんだけど。……愛莉ってのは、光の一つ上のお姉ちゃんで、」
「どうして、俺にそんなことを話すんだ? さっきの、俺にとって悪い話じゃない、というのはどういう意味なんだ……」
ミートソースの味が良くわからない。どうして食事をしながら、こんなに非常に消化に悪そうな話をしているのだろうか。
アオイは少しの間黙ってから、呟いた。
「そういう煩わしい事情を知った上で、ユイ、っていうよりも光の全部を引き受けて欲しい。そもそも光が家を出て、遠くの学校に通うの決めたのだって、無意識に愛莉から離れようとしてるからなんだ。俺だっていつまでも愛莉との問題を放置しようとは思ってない。そして俺は尚志に光を任せる気はない。あんたの方がずっといい」
今までの口調は少し乱暴な印象を受けていたが、急にそのトーンが真面目な物に変わっていた。
「さっき君は……男には興味ないって言ったが、その点はどうなんだ。俺に任せるというのは、矛盾しないか」
「俺のことはいいんだよ。これはあくまで光の問題。今はちょっと俺が出てき易い環境にあるけど、普段は光に必要とされなきゃ出てこない。悠司が俺の存在を気にする必要は皆無だ」
「光くんは三日間記憶がないと言ったが、その間君は何をしてた?」
「愛莉の、ケア。久しぶりに会ったし、まあ色々とさ」
あっさりと教えてくれるアオイに、悠司の顔は難しくなる。
もしアオイの言うとおり、実の姉とどうこうしているというのであれば、それは女性相手でも普通にそういうことが出来るということだ。悠司や尚志に対して彼が肉体的に受身の男の子である、という意識から、あまりそういった問題は考えたことはなかったが、まるっきりそういうわけでもないのであれば、色々と不都合も出てきそうな気がする。それに何より……この件を光はどう思っているのか。
光には言うなと釘を刺された。
つまりこの会話を、光は把握していない。
「――もしかして、頼まれたくない? 面倒ごとは嫌か」
「そういうことでは……」
そういうことではない。ただ、疑問点やら何やら、聞きたいことが沢山あるだけだ。すんなり承諾せずに色々聞いてくる悠司に、アオイは少しばかり神妙な顔をしてみせた。
「俺は別に一生面倒見ろって言ってるわけじゃない。所詮は色恋沙汰だし。ただ、尚志よりはあんたの方が、長く付き合える相手として相応しいと感じるだけ」
黙り込んだ悠司に、アオイは小さな笑みを浮かべた。
「嫌ならこの場で断ってくれ。尚志の節操なしな下半身でも矯正して、あいつにするって手もあるし、他で探したっていい」
本気とも冗談ともつかない声音で軽く言われて、内心悠司は焦る。そんなことをされるのは不本意だった。同時にユイも失ってしまうことになる。
「――そういうことじゃない。俺にとってユイは……光くんは大切だ」
「ならOKってことでいいのかな? まあ、あんたもなんか、裏がありそうな男だけど……なんか、隠してること、あるだろ」
見透かされていることに驚き、しかし顔に出すことはしなかった。
アオイはまた小さく笑んで、フォークを置いた。
「なんか裏があるくらいが丁度いい。全く以って真っ当な人間には、光みたいのは逆に無理だろ」
ふと立ち上がり、悠司の座っている椅子の傍まで来ると、アオイは身を屈めて耳元で囁いた。
「ユイにも根回しはしてある。少しくらい強引だと思っても、光を光のまま、抱いてみろよ。あいつを、あんたに惚れさせろ」
「……それは……」
「俺の存在くらいは言ってもいいけど、愛莉の件だけは絶対に光に言うなよ。あいつ絶対悩んじゃうからね。……んじゃ、俺はこれで。昼飯ごちそうさま」
その指先が悠司の頬に軽く触れ、すぐに下ろされた。一度その瞼が閉ざされ、ほんの少しの間があって、次に目を開けた時には悠司のよく知っているユイがそこにいた。
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