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第16話 あの時の空の青
光はあまりのことに頭がぐちゃぐちゃだった。
唐突に知らない場所に放り出された感覚。
いつもと違う感触のベッド。照明の落とされた薄暗い部屋の風景も、普段とは異なる。
心拍数がぐんと上がる。
熱をもて余すほどの体温。尚志ではない肌がすぐ傍に存在する。
傍、というよりも、既に自分の体の中に、その質量がある。不安定なリズムで体を揺さぶられて、何がなんだかわからない。
うっすらと汗の浮かんだ男の裸体は、見慣れている尚志のそれとはまた別物だったが、けれど初めて認識するというわけでもなかった。
ユイを通して、ぼんやりとした記憶がある。
――所詮は他人事の、情事。
それがあまりにも突然に、自分の身に降りかかったことに光は混乱していた。
自分のことを抱いているのが誰だか目視して、どうして良いのかわからなくなった。
(嘘でしょ……なんで?)
悠司が、自分の目の前にいた。
普段している眼鏡を外した彼は、何故かどこかつらそうな顔をしていて、それは光の胸をぎゅうっと締め付けた。そんな苦悶の表情に、色気を感じた。
けれどそんなことよりも、どうしてこんな状況に身を置いているのか。
ユイを、抱いていたのだろう、とは思う。
さっきまで、テレビドラマでも観るかのように他人事として、あくまでも傍観者であったはずの自分が、いつのまにか当事者にすり替わってしまった。
いつもそうするように、ユイは恥ずかしそうに悠司に体を預けて、彼のされるがままに愛されていた。そのはずだった。
どうしてこんな事態に陥っているのか。
自分が女の子の服を着ているのはわかる。それもだいぶはだけて、下着なんかは勿論着けていないのだが、ユイが悠司とする時はいつもこうだった。
女の子の姿のまま、悠司の物になる。
普段なら、そんな最中にいきなりユイが引っ込んで、人格が光にシフトするなんてことはありえなかった。それなのに、この現状はどうしたことだろう。理解出来ない。
「――せ、」
先生、と呼びかけようとして、止まる。
こんな時に、多分こちらの事情でいきなりユイから光に代わってしまったからと言って、中断させるのは相手に悪い。そんな妙なことを考えてしまったのだ。
きっと悠司は、光になってしまったことに気づいていないのだろう。だからそのまま抱くし、特に何も指摘しないのだ。
そう思ったから、言えなくなった。
だけど、
(こんなの、どうしたら)
普段自分を抱くのは、尚志だ。
彼のやり方はだいぶ熟知しているし、いつだって光を気持ち良くしてくれる。勿論悠司が乱暴というわけではないのだが、違う人間だし、違和感は発生する。
それに何より、気持ちの兼ね合いというものがあった。
(柴田……じゃない、のに)
ちゃんと悠司の愛撫に気持ち良くなっている自分がいる。肉欲に溺れている。
(なんか、淫乱……)
ぽつんと、そんなことを思った。
どうしようもなく泣きたくなって、ほんの少し、瞼を下ろした。
「……どう?」
悠司が光を見つめて、不意に呟いた。
どう、と言われてもなんと答えて良いのか。
男を受け入れるのに慣れてしまった体は、確かに快楽を追っている。それが悠司だとしても。
困ったような視線の意味に、気づいているのかいないのか。体を穿つ動きがふと緩慢になり、光の唇を悠司の舌がゆっくりとなぞった。唇の隙間から光の舌を絡め取るようにされて、どきんとする。
(ぅ、わ)
そんなふうに、優しくしないで欲しい。
(僕、ユイじゃないのに……っ)
体の奥がきゅんとなる。
目を伏せてされたキスに、先生意外と睫毛長い、整った顔がほんとにかっこいい、なんて関係ないことを考えてみた。あるいはそれは、現実逃避だったかもしれない。
頭は混乱していたが、中断させるという手段は相手に悪いという意識から、光の中に存在していなかった。今は黙ってそれを受け入れた。
(とりあえず、あとで、考えよう……)
どうしてこんなことになってしまったのか、考えても仕方ない。
尚志に対する罪悪感が増したような気がしたが、今更中断したところで何が変わるわけでもなかった。
(ほんと、今更……)
これまでだって、ユイとして抱かれてきたじゃないか、とも思う。後ろめたく感じたところで、どうなるというのか。
上にいた悠司は、華奢な体を抱き寄せて光を自分の膝の上に持ってきた。一旦体からずるんと引き抜かれた喪失感と、すぐにまた入り込んできて突き上げられた圧迫感に、びくびくと体が震えた。粘膜が擦れる時の濡れた音が、情欲を刺激した。
「ん、……んっ……ぅ」
「――大丈夫?」
光は曖昧に頷いて、もうこのまま最後までしてしまおうという開き直りから、悠司の体にぎゅっとすがりついた。
尚志に初めて抱かれた時も、この体勢だったような気がする、なんて急に思い出した。空の明るいうちから、画材の匂いのする部屋で、初めてそうしたことを覚えている。
あの時の空の青が、目に焼き付いている。
「大、丈夫……」
間違って、先生なんて呼ばないように。
光になってしまったことを悟られないように、余計なことは喋らない方が良い。悠司に悪いから。
光の反応に悠司はなんだか安堵した様子で、ワンピースのファスナーに手を伸ばすと、静かに下ろして背中をあらわにさせた。
大きな手が、背骨のラインをゆるやかになぞる。ぞくぞくとした。
体が疼いて仕方ない。
布越しじゃない、直の肌の温度が欲しい。体にまとわりつく服がもどかしい。
何も考えたくなくて靄のかかった頭で、光は無意識に甘えたような声で懇願する。
「も、全部、脱がせて……」
ユイはこんなこと言わないだろう。
男の体を、見られたくないだろうから。
それでも今は、目の前の男に直接抱き締めて欲しくなった。
悔いることになっても、それは今じゃない。
後悔とは、あとでするものだ。
尚志の顔がちらついたけれど、光はあえてそれから目を逸らした。
「大丈夫か、ユイ」
光にあとのことを任せて引っ込んだユイは、あえて意識を外へ向けずに小さくなってしゃがみこんでいた。
声をかけたのは、アオイだ。
けれど反応はなく、ただただ重たい沈黙が返ってくる。
「聞いてんのかって。――ほら、光、全然大丈夫っぽいじゃん。悠司相手に、こんなに可愛らしく、あんあん鳴いてくれちゃって……、俺としては耳を塞ぎたいほどだけどな。悠司も不本意そうにしてたわりには、結構ノリノリでヤってんじゃね? 思うんだけどユイ、おまえにはエロさが足りないよ。少しは光を見習った方がいいかもね」
ユイを煽ろうとしたのだが、またしても沈黙がアオイを襲った。あまりのノーリアクションにちょっと眉間にしわを寄せたが、煽っても仕方ないと思い直す。
「……ま、これで光が悠司とくっついてくれりゃ、尚志は不要。丸く収まる。違うか?」
「だけど、光は、」
やっと返事が返ってきた。
「柴田くんのことが、好きだもの」
「何を今更、そんなこと言ってんだよ。おまえも納得ずくだったはずじゃないのか? 悠司にもそう言ってた。俺ちゃんと聞いてたよ」
「……そう、だけど……」
ユイの返事には、力がない。
「もし仮に、悠司が光だけ好きになっておまえに興味失ったとしてもさ、同期すればいいだけの話だよな? そういう心配してんだったら、」
「そういうことじゃないもの」
ユイが何をしたいんだかわからない。アオイは嘆息し、何か言い募ろうとしたが、言うのも面倒になって結局はやめた。
今回のことがどのように転ぶのか、正直アオイにもよくわかっていなかった。ただ、何かは変わるだろう。
願わくば、それがアオイの思惑どおりに。
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