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第3話 プラスアルファの不在
「――そういうわけで、多分一週間くらい。柴田、聞いてんの?」
筆を動かしながら、一昨日宇佐見光 に言われたことをなんとなく思い出していた。
二ヶ月くらい前に友達から友達プラスアルファへと変化した光は、今尚志の傍にいない。それが尚志の自宅だから、というわけではなく、彼の住まうアパートに会いに行っても忽然といない。
光は今、愛するたれ耳うさぎのユイを連れて実家に帰っている。実家は少し離れた土地にあるらしくて、尚志と同じく末っ子であり、とても可愛らしい外見をした光がよく一人暮らしなどを許して貰えていると思うのだが、とにかく会おうと思ってもいないものはいない。
尚志の好みは、可愛らしい男だ。自分より頭一つ以上小さくて華奢な光は、女の恰好をしてもなんの違和感もない、いわゆるロリショタ系の愛らしい男で、どこかでナンパされていやしないだろうかと、うっすら心配にもなる。
恋人、ではない。
肉体関係などまるでない友達だったのが、色々あって、エッチしても普通にやっていけると思う、とかなんとか言われて今の関係が出来上がった。しかし、未だにはっきり好きだと言われたわけでもなく、体の関係はあっても友達以上恋人未満の位置付けだった。
(まー、それはいんだけど)
絵の具をパレットの上で混ぜながら、尚志はため息をつく。
ゆっくりじっくり惚れさせるつもりでいるのでそれはいいのだが、ちょっと面倒臭い事情があって、光にはもう一人違う男がいる。こっちは明らかに、恋人だ。
二股をかけられている、というのとは少し違う。光は二重人格で、ユイという別の人格が存在する。そのユイが、別の男と付き合っているのだ。
人格が二つあるからと言って、体は一つだ。光のあまりすれていない体が他の男に抱かれるのは、なんとなくむかつく。自分が光の初めてを優しく優しく奪ったのに、少し男に慣れてきたところで横から当然のように別の男に食われるのは、若干、腹立たしい。
別に「俺が開拓した体なのに」とか思っているわけではないが、それは素直な心の動きで、ごく当然の感情であると認識している。けれど尚志はあえて何も言ったりしない。
光を追い詰めることになると知っているから言わない。
自分だけのものであれと、言ったりはしない。いずれユイが消える時が来るのを大人しく待っている。
消えないかもしれない。ずっと共存し続ける可能性だってある。だがその時はその時で、また対策を考える。
「あー……うぜえ」
集中出来なくて、尚志は絵筆を床に置いた。なんだか苛々している。
雅宗に会ったせいか、光がいないせいか、それとも単に暑いからか。放置して水滴の浮かんだグラスを手に取り、ぬるくなったコーラに口をつけた。
炭酸のしゅわしゅわとした感じが、喉を刺激する。しかしそんなもので苛立ちが収まるわけもなく、むしろそのぬるさが更に苛立ちを増幅させて、尚志は立ち上がった。
何時間も、絵の前にいた。
窓の外を見るとすっかり陽は落ちている。それでも熱が冷めることはなく、じんわりと暑い夜だ。
昼間空港に迎えに行ったあと、車で移動して雅宗の宿泊するホテルのラウンジで少しだけ話した。しかし雅宗は尚弥の友人であって、勝手に二人で話してくれと途中で尚弥を放って一人で帰ってきた。やりたいことがあるからと言うと、あまり引き止められもしなかった。
「尚志くん、また会おうな」
去り際さわやかに笑った雅宗の態度は、よくわからない。何がしたいのだ。
単なる「友達の弟」として普通に接してくるのが妙な違和感となって尚志を襲ったが、変な対応をするのは相手を面白がらせるだけのような気がして、こちらも「兄の友達」としてわりと普通に接した。
今日か明日くらいにアクロに行くとか言っていた雅宗を思い出したが、別に奴に会いにゆくわけではない、となんとなく一人言い訳をする。
単なる、気分転換だ。
大人しく眠れる状況になかった。
「あらぁ、ひーくん」
何度も来たことのあるアクロのドアをくぐると、悦子 ママが嬉しそうに濁声を発した。
尚弥は完全に「繭」の顔になり、大きく胸の開いた服で接客をしている。あまり広くない店の中をぐるりと見渡すが、雅宗らしき人影はない。
「今日はユイちゃん来てないわよお」
「ああ、うん。知ってるけど」
尚志の絵のモデルをする際に、光にロリータ服を着せたことがあった。それから女装にはまってしまい、戯れに兄が勤めるこの店に連れてきてやったところ、結構入り浸るようになってしまった。今は尚志以上の常連だ。
ここではユイと名乗っている光は、ママとも繭(ここではあえて繭と呼んでやろう)とも仲良しだ。しかし光がいないことは最初から知っている。
「なんか作ろうか?」
「えーと……ああ。なんか適当に」
カウンター席に腰掛けながら、軽く返事をする。
尚志はあまり酒の種類を知らない。悦子ママが適当にチョイスしてくれたものをいくつか飲んで、これは好き、これは嫌い、とその都度範囲を広げてゆく。あまり強い方ではないが、アルコールが入るのは好きだった。
「これはどうでしょう」
にいーと笑った悦子ママは、赤っぽいカクテルを尚志の前に置いた。
若干不気味だが人の良い笑顔。昼間のママにも会ったことがあるが、結構普通のおじさんだ。こんなママにも若いホストの旦那がいるので、世の中不思議だ。
「これ何?」
「夏らしく、スイカのカクテル。ひーくんお気に召すといいんだけど」
「どれぇ」
心地良い冷たさのカクテルを口に入れて、ちょっと落ち着く。あまり度数の高くないアルコールは甘く、スイカの爽やかな味が広がった。
「お、これ好きかも」
「ふぅん、味見させてみ」
背後から腕が伸び、グラスをいきなり奪われて尚志はぎょっとする。さっき見渡した時はいなかった男が、尚志の背後に当然のように立っていた。
(来てたんかよ)
ちっ、と舌打ちをして雅宗を振り返る。トイレにでも中座していたのだろうか。今来たふうではない。既に酔いが回って、顔が若干上気している。そっとうなじの辺りに開けたピアスのバーベルを指先でなでられる。
ぞくりとした。
雅宗は楽しそうにふやけた笑顔で尚志の隣に腰を下ろして、嫌そうにした顔を覗き込んだ。
「よ、ひーくん」
「……おう」
ママや友達の一部がそう呼ぶ尚志のあだなをわざとらしく呼んで、奪ったばかりのスイカのカクテルを勝手に味見している。
「甘口だな。こういうの好きか」
「人の好みにケチつけんなよ」
「男の趣味も、甘口だよな。……今、状況的にどんなだか言ってごらん。ほら、お兄さんにぶっちゃけてみ」
酔っ払っている。
何故雅宗に現在の状況を報告しなければならないのだ。ちょっと黙り込んだ尚志に、雅宗はくすりと笑い、ママに水割りを頼んだ。
「しかし君、恐ろしいところにピアス開けてんのな。何その首のうしろ」
「ネイプっていうんだよ、これは」
「ピアスの名称なんて、どうでもいいけどな。痛そ。ひーくんマゾ?」
尚も「ひーくん」を続ける雅宗に、若干苛立ってくる。絶対神経を逆なでしようとしている。別にどう呼ばれようと構わないが、あえて「尚志」と呼ばないあたりが気に食わない。
「雅宗うぜえ。繭んとこ行けよ」
「――お、岸さんじゃなくなった」
妙に嬉しそうな声で呟いた雅宗は、ママが出してくれたグラスを受け取りながら、本当に唐突に尚志に顔を寄せて、目を開けたままキスした。
「…………おい」
「ん?」
突然のことにママが少しびっくりしたように固まったが、すぐに放置を決め込んだようで洗い物を始める。
客同士が込み入った事情の時、止めた方が良い場合を除き傍観することに決めているようだ。
「大丈夫。しょうくんはこっち見てない」
にやりと笑って、雅宗は名残惜しそうに唇を解放した。
今更何のつもりだ。
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