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第5話 強制的な睡魔
耳元で誰かの声が聞こえる。
何かを言っているのはわかるが、妙に現実感が薄くて、尚志も何かを答えたのだがはっきりとは認識出来ない。
飲みすぎたのかもしれない。
意識がなくなるほど酔ったことはないが、現在のこの状況は、かなりそれに近い気がした。しかしそう思ったのも束の間で、すぐにどうでも良くなる。
頭がぐるぐるしている。
腕を掴まれ、歩かされているような感じだ。喋っている内容が上滑りして、まるでとりとめがない。
それでもなんとか歩けているらしい。尚志を支えて歩くには、相手も結構体力を使うはずだ。巨漢という表現は少し違うが、とにかく逞しいこの体はわりとかさばる。
(柔らかい、)
ぐらりとした。視界が縦から横になり、なんだかとても居心地の良い感触が皮膚にまとわりついた。
「水、飲むか?」
また誰かの声がした。
……誰か。
(雅宗……)
「ほら」
雅宗の声がすぐ傍に下りてきて、尚志のこめかみに冷たい金属製のカップがこつんと押し付けられる。
「尚志は酒の飲み方が下手だな」
名前を呼ばれた。
(懐かしい声)
薄く開いた目を彷徨わせ、尚志は自分の横たわるベッドに腰掛けた雅宗を捕捉した。ここは、どこだろう。
「……うっせえ」
こめかみにくっついたカップを受け取り、その冷たさをしばし堪能してから身を起こした。
眩暈がした。
額を押さえた尚志に、雅宗は軽く笑って「平気かあ?」と揺らいだ体に手を添えてくれた。そんなに飲んだのだろうか。ママの悪戯でキツめの酒を無理に飲んだあと、口直しと称して違うのも飲んだ。……結構、酔っ払ったかもしれない。貰った水に口をつけ、少しクールダウンする。
「せっかく介抱してやってんのに、うっせえ、はないだろ」
「そりゃあどうも……。ここは?」
「俺の泊まってるホテル。部屋をツインに変えて貰ったんだ。……君、自力で帰れそうになかったからさ、タクシー拾って連れ込んじゃいましたよ。無防備だな」
「連れ込……」
がんがんする頭に顔をしかめながら、尚志は辺りをぐるりと見渡した。そんなには広くない部屋。落ち着いたインテリア。テーブルの上にノートパソコン。床には昼間見たスーツケース。
「落ち着いたか?」
「――少しな」
ぶっきらぼうに答える尚志の手から、水のほとんどなくなったカップを受け取って床に置き、雅宗は「何より」と呟いた。
場所は知っているはずなのに尚志の自宅まで送らず、宿泊するホテルまで連れてくるということは、何か意図があるのだろう。そう思ったがあえて尚志はそこに突っ込んだりせず、重たい頭を一度振ってからぐったりとため息をついた。
「どうした、吐いとくか? 手伝ってやろうか」
「いらね。吐き気はしねえし」
「じゃ、しばらくそこで寝てなさいよ」
雅宗はあっさりベッドサイドから立ち上がると、部屋の照明を暗くして、自分はノートパソコンの置かれたテーブルの前に腰を落ち着けた。そこだけが柔らかい光で照らされ、横顔が薄闇に浮かぶ。
(……あれ)
何もしないつもりなんだ? と考えながら、その顔をぼんやり見つめる。起動音がして、こちらからは見えないディスプレイが明るくなった。マウスのかちかちという音が微かに響く。
「仕事?」
「まあ、そんなもんだ。ほら、酔っ払いの君は寝る」
「君々言うんじゃねえよ」
「じゃあ、尚志」
ちらりと尚志を見て、ここに来るまではけして口にしなかった呼び捨ての名前を呟いて、雅宗はまたディスプレイに視線を戻した。
「……なんで、尚弥の前では呼ばないんだよ?」
「何の話?」
「いや、だから……」
「俺しょうくん好きだからあ、君となんかあるとか思われたら嫌じゃん」
「――ああそうかよ」
いきなり何を言うのかと思えば。
尚志としては、雅宗と尚弥は単なる友人だとずっと思っていたのだが、違ったのだろうか。
「じゃあ尚弥連れ込めよ。俺じゃなく」
少しばかりちくちくとした尚志の声色に、雅宗は薄く笑んだ。
「しょうくん、同棲してる男がいるって話じゃないか。その男のためにあんなかっこしてるってすごいわ。尊敬しちゃうよ。ま、そんな勝ち目のない略奪愛とか興味ないしね。……ていうか、嫉妬してくれてる?」
「馬鹿じゃねえの」
掛け布団の上にいた尚志はその中に潜り込み、光源から目を逸らす。
嫉妬など、しているわけではない。自分と雅宗はそういう間柄ではない。ただ過去に寝たことがあるというだけの、つまらない関係だ。
「……なあ雅宗、今までどこ行ってたんだ?」
「寝なさいよ。俺は忙しい」
嫉妬して欲しそうな素振りを見せたかと思ったら、今度はそっけない。どうして尚志をここに連れてきたのだろう。夜の相手として連れ込んだならわかるが、ただこうやって少し距離を取って会話するだけなんて、どこか妙だ。
「また帰るのか?」
「多分な。帰りのチケットはまだ取ってないけど、ホテル代も馬鹿にならんし、そう長くはいないつもり」
「実家……帰ればいいじゃねえか」
至極当然の尚志の疑問をよそに、雅宗はポケットから何かを取り出しながら再び立ち上がって、さっき床に置いたカップを拾い上げた。若干底に残っていた水を口に含むと、尚志のいるベッドにぎしりと体重をかける。
「眠れないなら、」
雅宗の顔が、近づいた。
唇が触れて、水と一緒に何かを飲まされる。思わず飲み込んでしまった正体不明の錠剤に、尚志は怪訝な顔になった。
今のはなんだ。
「免疫ないとわりと即効キクから、すぐに眠れる」
「……勝手なことすんな」
よもやおかしな薬じゃあるまいな、と雅宗を胡乱な目で見つめるが、離れたその顔に邪な気配は感じられなかった。
「尚志の唇は、わりと楽に奪えるから好きだよ。……おやすみ」
掛け布団をぽんぽんと軽く叩いて、雅宗はそれ以上何をすることもせずにまたノートパソコンのところへ戻っていった。
ほどなくして睡魔が緩やかに尚志を襲ってきた。
どうして睡眠薬など持っているのだろう。聞こうとしたが、眠くて聞けなかった。
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