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第6話 夢うつつ

 眠い。  不自然なまでの睡魔。  雅宗が飲ませた薬は起きていようとする尚志の意思とは関係なく、その意識を深いところへと引っ張り込む。雅宗の気配は少し離れたところにあって、けして尚志の傍にはやってこない。  いっそ触れてくれたら。  ……何を考えてる。  別に彼と何をしたいわけでもない。本当に今更だし、無遠慮に尚弥を好きだと言う男に、未練があるとも思えない。 (尚弥の……)  兄の代わりか。  代わりになどなれるものか、と思う。微かに似た面差しを求めたのか。それとも、尚弥でなければ誰でも良かったのか。  どうでも良かった。  考えてどうなるものではなかった。  つまらないことなど何も考えず、ただ泥のように眠ればそれでいい。朝になったらきっとすっきりしている。 (……柴田……)  急に呼ばれた。  尚志はびっくりして目を開いた。 「――ん? あ?」  木炭を持ってイーゼルに向かっていた自分に気づき、尚志はきょろきょろと辺りを見回した。 「ぼうっとしない、柴田。居眠りでもしてたのか?」  ここは……どこだ。  考えて、すぐに思い出す。  ここは通っている高校の美術室。  目の前に、同じ部の三年生である仲原湊(なかはらみなと)が座っていた。二年の尚志からしてみれば、一つ年上。この年頃の一年は、結構大きい。けれど目の前の湊はとても小柄で、尚志よりずっと幼い感じの男だった。  湊は多分美大に進むのだろうが、詳しい話は本人が口にしないのであえて聞かなかった。今は尚志のデッサンに付き合って、差し向かいでお互いを描いていたはずだった。  木炭で汚れた、指先。  それをじっと見て、なんだっけ……と尚志は考える。  ……高校? (ああ、これ夢か)  よくわからない非現実の中をたゆたっているのか。  さっき、とても眠かったような気がする。夢の中に囚われてしまったのだ、きっと。最初はそう思ったが、すぐにそんなことを考えた事実もわからなくなった。  湊の背後を見ると、既に夕闇が迫っていた。 「どうした? 眠いんならもう帰ろうか? 居眠りするためにここにいるわけじゃないだろう」 「あ、はあ。すんません。ちょっと、なんか……あの俺、寝てました?」 「思いっきり寝てたよ。ったく、他の部員はもう帰ったってのに。僕だっていい加減おまえのこと描き終わったし」 「えー、見せて」 「ほら」  イーゼルに立てかけられていた絵を尚志に向けて、湊はため息をついた。  紙の上に存在する、自分。よく特徴を捉えたモノクロの尚志。それは単なるデッサンとは違って、何か違う感情が見え隠れしていた。それを敏感に感じ取って、尚志は小さく笑みを浮かべる。 (あー、先輩可愛い)  年上だけど可愛い。  描くラインに、単なる後輩とは思っていないのが滲み出ている。居眠りしていた尚志を、何を思いながら描き上げたのだろうか、などと不必要な考えが頭を過ぎる。 「――何」 「いや、上手だなって」 「嫌味か」  ほんのり眉を歪めた湊に、尚志は笑みを浮かべたまま不思議そうな顔になる。 「なんで嫌味? 褒めただけじゃん」 「いや、もういいよ……さて。もう片付けようか? そろそろ帰らないと、先生見回りに来る」  壁にかかった面白みのない時計を見ると、とっくに下校時間は過ぎている。閑散とした美術室には、自分たち以外に人の形をしたものは白い胸像が存在するくらいで、窓から見える校庭も閑散とし、闇が落ちていた。 (二人きり。……やべ)  こんなに愛らしい湊と二人きりだ。  湊の可愛い外見は、女子にとても人気がある。ここが男子校であるならば、同性からも重宝がられたことだろう。しかし生憎というべきか幸いというべきか、ここは共学だ。  画材を片付け、イーゼルを端に寄せながら、尚志は湊をなんとなく見つめた。  もうすぐ着なくなる、高校の制服。白いシャツにネクタイが良く似合っていたが、少しばかり曲がっている。直してやろうかとそれに触れたら、湊がぴくりと反応した。 「……え、あ。曲がってたから」  伸びた尚志の指を、湊の手が容赦なくべちんと叩き落す。 「ひでえ」 「自分で出来る」  目を逸らした湊は、叩き落した手の動きとは逆に、拒絶しているようには見えなかった。 (食えそう)  ふと、尚志は心の中で呟く。  湊から何かを言われたことはなかったが、押したら結構あっさり自分のものになりそうな気がした。 (食って欲しいんかな)  尚志は自分がゲイだと大っぴらに校内で言ったりはしていないが、そういう雰囲気は同類にはなんとなく伝わる。  恥ずかしいから言わないというわけではない。ただぐだぐだ言われるのが面倒だし、悪目立ちするのも得策ではないと知っているから、あえて言わない。尤もばれたらばれたで、一向に構わない。  湊は、尚志がそういう人間だと気づいているのだろうか。  多分、気づいている。  気づいた上で、尚志に後輩以外の感情を抱いている。さっきのデッサンを見ればそれがありありとわかる。 「なあ先輩、……ほどいたげようか?」 「――え?」 「ネクタイ」  ちょっと鎌をかけてみたら、途端に湊の頬に朱が散った。 (うわ、素直)  言葉は結構つれなかったりするが、こういう素直な反応は嫌いじゃない。 「綺麗に締め直すには、一度ほどいた方が」  にい、と笑って尚志は自分より背の低い湊の首元に再び手をかける。今度は叩き落されなかった。顔を赤くしたまま俯いた湊のつむじが視界に入る。  ネクタイを緩め、抵抗されるかな、と思いながらもシャツのボタンを一つ外してみた。 「……柴、」  ぷつんと外されたボタンから覗いた、薄い体。美術部に所属しているにしては逞しい尚志と比べると、非常に頼りなくて華奢な印象だ。 「柴田……見回り、来る」 「そのわりに、抵抗しないんだ?」 「抵抗したらやめるのか」 「やだって言ってくれれば、速攻やめる」  無理にするのは嫌いだ。けれど湊が嫌だとは言わないだろうと、なんとなく尚志には確信があった。 「実は俺のこと、ただの後輩じゃないだろ?」 「さあ……」  外れたボタンの隙間から服の中に手を差し込み、左胸に置いてみる。心臓がすごい勢いで脈打っているのがわかる。それはそうだろう。尚志にこんなことをされるのは初めてだ。 (ボタン外しただけだけど)  男にボタンを外された経験などないのだろう。もしかしたら、女にも。そういうことをまるで知らない感じがする。  そういう相手は、初々しくて好きだ。  湊をとても可愛いと思う。思うがそれが恋愛感情かどうかは尚志にはよくわからない。どういうのが恋愛感情なのか理解する前に、体が先行してしまう。 「――嫌だ」 「そう?」  身をかがめ、ちゅ、と白い首筋にキスを落とした。湊は震えるように身じろぎしたが、嫌だと言ったわりには相変わらず抵抗しない。 「速攻やめるって言ったろ……ていうかおまえ、僕一応、先輩だから」 「知ってる。それが?」 「さっきからタメ口」  顔をしかめた湊は、尚志の体を軽く押して自分から遠ざけた。抵抗されないと思ったのにな、とちょっと目測を誤った尚志は微妙に残念な顔になる。 「敬語だったら、良かったわけ?」 「……そ、ゆうわけじゃ。ただ、その……」  湊は言い淀みながら、外されたボタンを再び留め直す。まだ顔が落ち着かない色をしている。 「ただ?」 「……や、あの、……柴田いきなりで。ふ……普通脱がすか? ここで?」 「じゃあ、これからうち来る? じゃなくて、……来ます?」  本当に嫌なら断れば良い。拒絶されてしつこくするほど尚志は厚顔無恥ではない。ただ、少し強引にすれば手に入りそうなおいしそうな男が目の前にいて、あっさり額面どおりに言葉を受け取ることは出来なかった。  湊は少しの間黙っていたが、 「柴田のバイクの後ろ、乗せてくれんなら」  こちらをまるで見ないで、机に置いてあった黒い鞄を乱暴に持ち上げた。

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