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第8話 壁越しの気配
友人である雅宗にパソコンの指導を受けていた尚弥は、隣の部屋の妙な気配に気づいていた。5つ下の弟がたまに男を連れ込んで色々しているのは知っているし、外でも何をしているか知れない。一人暮らしならまだしも、親にバレたらどうするつもりなのだろう。だがそれについてあまり口うるさく言うことはせず、まあいいかと放置してある。
尚弥の部屋は、尚志の部屋とは違ってどこまでも整理整頓されている。服を脱ぎっぱなしにすることはなくクローゼットに片付けてあるし、すべてがあるべき場所に納められている。床には灰皿から溢れんばかりの煙草の吸殻。その七割はチェーンスモーカーの尚弥が消費したものだった。煙たいので窓が開いていて、夏から秋へと移り変わる幾分涼しい空気が流れ込んでいた。
「なあしょうくん、お隣、ピンクいけど。若いねえ」
窓の外からたまに聞こえる車の音や人の気配とは別に、先ほどから隣の部屋から聞き慣れない声が洩れている。仕方のない弟だ。周囲に対し遠慮というものがない。
「気が散る?」
雅宗はかりかりと背中を掻いて、うーんと唸った。
「ムラっと来るじゃん?」
「可哀想だから乱入しちゃ駄目だよ。相手の男の子どんなだろうね。なんか、慣れてない感じ。尚志しょーもな」
日常茶飯事なのかあまり興味もなさそうに流した尚弥に、雅宗は苦笑した。乱入なんてするような男に見られているようだ。
「そんな無粋な真似はしないけどね……しょうくんはああいう弟、どう思う?」
「犯罪行為に走らなきゃ、まあいいんじゃないの。僕があえて口出すことでもないでしょう」
「まあそうだけどさ……。尚志くんて、まるっきり男だけ?」
何気なく尋ねた雅宗に、尚弥は唇の端を少し歪めるようにして笑った。
「そう。視界狭いよね。んでこれがまた、見たまんまのバリタチ。たまにはヤられてみたらいいのに。新たな世界が広がるかもしんない」
無責任なことを言って、尚弥はマウスをかちかちとクリックした。
尚弥は男も女もいける、非常にニュートラルな男だが雅宗とは何もない。
中学の時からの付き合いだ。途絶えることなくだらだらと、居心地の良い友人関係を続けている。来年就職が決まっている尚弥はまだ大学生だが、雅宗は専門学校に行ったあと就職して、一足先に社会人になった。それでもこうやって一緒に過ごす時間がなくなることはない。
すべてを曝け出しているわけではないが、お互いとても楽な関係だった。
「しょうくんの言だと、ヘテロな男女も視界が狭いってことになるよな」
「や、だって。世の中の半分だけが恋愛対象って、範囲狭くない? まあ好みとかはあるけど、性別は気にしないなあ……雅宗だって、そうじゃん?」
「まあ、そうだけどね」
その通りだった。
雅宗も、尚弥に負けず劣らずの性質を持っている。同性と寝ることに抵抗はないし、女も勿論好きだった。だから相性が良いのかもしれない。
尚弥は考えるように少し黙り込んでから、雅宗の目を覗き込むようにじっと見て、唐突に核心に触れた。
「別に止めたりしないけど、尚志のこと気になってたりする? モデルなんてやってあげてるし」
いきなりの質問に、雅宗は数秒沈黙した。
結構頻繁に柴田家にやってくる雅宗は、何度か尚志と出くわすうちに、たまに絵のモデルをやるようになっていた。高校生にしては随分とレベルの高い絵を描く尚志は、その時すごく真剣な目をする。心の奥底まで見透かすような視線を向けられる。
尚弥と似ているのに、まるで違う表情をする。
尚志の目は、雅宗を激しく揺さぶる。
描く絵もまた、心を揺るがす。それは、色々な意味で。
「――いや?」
けれど雅宗は数秒後に短く否定して、話題を逸らした。
「しょうくんは、近頃どお」
「どうって?」
「今付き合ってる奴いるの」
付き合っている相手がいてもいなくても、多分何がどうなるわけでもない。現在の関係を崩す気もあまりなかったが、実は尚弥はわりと雅宗の好みだ。
シャープな造りの、優男。きめ細かい肌は綺麗で、男臭さがあまりない。シャツから覗くうなじとか鎖骨のラインがたまらない。もしそれ以上に発展しても、雅宗としては一向に構わなかった。相手がその気なら、の話だが。その気がないのは知っている。
尚弥に似ているから、尚志が気になるのか。
ふと雅宗は考えたが、すぐにその考えを中断した。
「同じ大学の女の子と付き合ってる」
「ふうん、今は女なんだ」
「うん、ぷに系の可愛い子。でも来年地元に帰って就職するんだってさ。遠恋はちょっとなあ……ねえところで、ここ、どうやんの」
操作に詰まった尚弥は、脇に置いてあった煙草に手を伸ばしながら、隣に腰掛けていた雅宗に顔を向けた。ライターを拾い上げて咥えた煙草に火を点けてやり、雅宗も一本貰う。
「ほら、ここはツール開いて、こうやって」
雅宗がかちかちと操作すると、画面が変わった。
「サンキュ。――あ、ご飯どうする。食べてく?」
「そうそういつもは悪いだろ。俺の分なんて用意してないだろうし」
しかし言われてみれば若干空腹感を覚える時間だった。多分下のリビングでは尚弥の両親が息子達を放って勝手に食事を始めているか、既に食べ終わっている頃だろう。
揃って食べることは、あまりないらしい。仲が悪いというわけではなく、それぞれが好きな時間に好きなことをやっている。そういう家だ。
「いざとなったら尚志の分を。ほら、あっちに夢中じゃん? ほんと母さんとか来たらどうするつもりなんだかあの馬鹿。……てか、激しいな。大丈夫か、相手の子。別の意味で逝っちゃいそ」
「しょうくん冷静だなあ……」
なんとなく尚弥の股間の辺りに目を落とすが、別段変化はない。雅宗などは、ちょっと反応してうずうずしているくらいなのに。
「何見てんの。リアクションしないよ、こんなんじゃ」
「どんなならいい?」
「男だったら、もっと大人のが好きだね。僕は尚志みたくショタ好みじゃないから」
「尚志くんショタ専なんだ……ほんと、視界狭いね。そんなんすぐ成長しちゃって、消え失せるのに」
雅宗はぼんやりと煙草を吸い込んだ。その横顔をちらりと見た尚弥は、何故か面白そうに笑みを浮かべた。
「先のことなんか、考えてないよ尚志は。今が良けりゃそれでいい。……ガキだからさ」
僕も似たり寄ったりだけどね、と呟いて、尚弥はパソコンの電源を落として静かに立ち上がった。
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