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第10話 嫌いではない

 何故か雅宗の車の助手席に乗り込んでしまったものの、一体どうしたものかと尚志は考え込んでいた。さっきのキスがなければ、本当に単なるお礼とお詫びを兼ねた食物供給の提案をしてくれた、という非常に単純な話だ。しかし妙な流れになってしまった以上、何か裏がある気がしてならない。  深いグリーンのクラシックな雅宗の車は、なかなか可愛らしい外見をしている。車のことはよくわからないが、乗り心地はわりと良かった。とりあえず差し迫った胃袋事情から何か食べたいのは本当だったので、考えるのは腹を満たしてからでも遅くはない気がした。そんなわけで、大人しく助手席に収まっている。  カーオーディオからはすっきりした女性ボーカルの歌が流れている。洋楽で、タイトルは忘れたが以前どこかで聴いたことのある曲だ。ただ聴く分には女性の声も嫌いではない。心地好い伸びやかな声に耳を傾けていたら、雅宗の怪しげなでたらめ英語が重なり出した。 「鼻歌にしとけば。歌えてねえよ」 「えーひどいな。これでも英会話スクール通ってんのに」 「へえ。どっか行くあてでもあんの?」  海外に行くあてはあるのか、という意味で尋ねたのに、雅宗は見当違いの返事をした。 「俺は腹一杯だから、尚志くんの好きなとこでいいよ。何が食いたい? イタリアンでも中華でもフレンチでも、遠慮なく」  行くあてがないのかもしれない。しかし雅宗の発音は、あてがあってもあまり通用しないカタカナ英語だ。尤も尚志にしてみたところで、似たり寄ったりのレベルではある。得意科目は美術と体育であって、英語ではない。英語なんていつも赤点ぎりぎりだし、美大に行くつもりではあっても少しは勉強した方が良いかもしれない。もうそのことについて触れるのはやめた。 「牛丼屋でいいよ。次の信号曲がったら、すぐだし」  ちゃんとした店になど行かずとも、空腹から逃れることが出来ればそれで良かった。雅宗は意外そうに尚志をちらりと見、すぐに視線を前方に戻す。 「リーズナブルだなあ。なんでも好きなの言ってくれて良いのに。さっきとは別人だ」 「……さっきって?」 「遠慮のかけらもないセックス」  にいと笑って、指摘された。さっきも優しさが欠けているなどと言われたし、もしかして喧嘩を売っているのだろうか。「かけら」くらいはあるだろう、と小さく呟く。そしてすぐに、「かけら」じゃ仕方ないか? と思い直した。 (遠慮、ねえ……)  遠慮などして湊のペースに合わせていたら、なかなかことを始めるにも至らない。今日尚志が半ば強引に持ち込まなかったら、ずっとこれまでどおりの先輩後輩だろう。  湊は、何も言わない。心の中に溜め込んだまま、ただ絵を描く。  湊の描く絵は嫌いじゃない。巧いと思う。当たり前のように美大に進むのだろう。  だが湊は進学問題について何も言わないし、たとえ陰で苦心や努力があったとしてもそれは大多数がそうだ。向上したいなら努力をするのは至極当然のことであり、それをひけらかすのは尚志にとって恥、とまでは言わないが、誰かに話すような問題ではなかった。  努力もなしに上手くゆくわけがない。たとえ才能があっても放置していたら腐り落ちる。そういうものだ。 「――何黙ってんの。耳に痛かった?」 「別に。考え事してただけだ」 「さっきのキスの意味とか?」  蒸し返されて、尚志は眉を寄せる。考えていたのは違うことだが、確かにそれも気にはなっていた。  何故あんなことしたのだろう? 「なんで避けなかったの? 避けようと思えば、避けられるだろ、あんなの。それとも案外とろいのか」 「……ちげえよ。されると思わなかったから」  とろいわけでは、断じてない。何をするのだろうと傍観していたら奪われただけだ。本気で避けようと思ったら、簡単に唇を奪われたりはしない。雅宗は本気で避けるような相手ではないということだ。別にあれくらい、構わない。 「キスすんのは好き?」 「嫌いじゃねえよ」 「ふうん」  嫌いじゃない、とまた心の中で繰り返して、ふと停止する。  女の歌声は嫌いじゃない。  湊の絵は嫌いじゃない。  キスするのは嫌いじゃない。 (俺って……)  嫌いじゃない、と表現することが多いのに気づいた。好き、という単語がなかなか口をついて出てこない。嫌いじゃない、のは、好きとは違う。 「……岸さんは、」 「それやめない? しょうくんは俺のこと、雅宗って呼ぶよ。岸さんは、なんか固い」 「はあ……?」 「キスまでした仲だし」  にっこり笑った雅宗の考えていることは、やはりよくわからない。尚志の隣で煙草に火を点けた彼の横顔をじっと見ていたら、ダッシュボードに置いてあったキャメルの箱を差し出される。 「吸いたい?」 「俺いちお、未成年。高校生」  別に吸いたくて見ていたわけではなかった。兄の尚弥はかなりの本数を消費するチェーンスモーカーだが、尚志はあまり興味がない。 「下半身は大人のくせに。真面目ぇ」 「岸さんさっきから何」 「雅宗。もっとフレンドリーに行こうよ。『岸さん』と同じ四文字だろ」 「なんだっていいけどさ。んじゃ、雅宗はさっきどういう意味で……」 「お、いいねえ」  話の腰を折りまくりだ。名前を呼ばれて雅宗は嬉しそうに尚志の髪をぐしゃぐしゃ撫でた。下半身は大人と言ったが、完全にガキ扱いされている。5つ年が離れているのは本当だが、このような扱いをされるのは実に不本意だ。頭など撫でられても、微塵も嬉しくない。その手をうっとうしそうに自分の頭から引っぺがそうとしたら、きゅ、と握られた。 「なあ尚志くん、俺と寝てみない?」  話に脈絡がない。不審な顔をした尚志に構わず、運転席にいる男は牛丼屋の駐車場に愛車を乗り入れた。

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