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第11話 寝耳に水
次の日の放課後、いつものように美術室に赴いた尚志は、くるりと教室内を見渡した。数名の部員がおのおの好きに描いているが、湊の姿はない。石膏の胸像に向かってデッサンしていた同学年の女子、吉野栞 が尚志を見つけ、ちょいちょいと手招きした。
「なんだよ?」
「湊ちゃん泣かせたでしょー」
(み、なと……ちゃん……)
脈絡もなく突っ込まれたので、尚志は一瞬固まる。何を根拠にそんな話題を振られたのだろう。少しばかり嫌そうな顔をしながらその辺からイーゼルと椅子を引っ張ってきて、栞の隣に腰を下ろす。
「何その『湊ちゃん』てのは」
勿論その湊ちゃんが誰のことを指しているのか、尚志は知っている。しかし一応先輩である仲原湊のことを下の名で呼んだことはなかったし、栞も普段は普通に仲原先輩と呼んでいる。だから、違和感が沸いた。
「いいじゃん、うちらの密かなアイドルなんだから、先輩は。それより柴田ー、何悪さしたのよ」
「アイドルぅ……しかも、密かな」
尚志は苦笑いして、栞の描いている胸像を一緒になって描き始める。ざくざくと描いてゆく手の動きに迷いはなく、思わず栞はそれをじっと見つめてしまった。
「人の見てねえで描いたら」
「さっきの質問、答えて貰ってないけど」
スルーしようとしている相手に気づいて、栞は隣にある尚志の足をげしげしと蹴った。そんなに痛くはないが、やめて欲しい。上履きが汚れる。
「……なぁんで、泣かせたとか思うん。むしろそれに対して俺が質問したいね」
昨日の一件を栞が知るはずもない。まさか美術室で二人きりだと思っていたのは間違いで、どこかで見られていたのだろうか。ちょっとだけ妙な汗が出たが、顔には出さない。栞は知らん振りを決め込んでいる尚志の足をもう一度蹴って、自分の絵に向き直った。
「昨日の夜、私コンビニで先輩に会ったんだよね。湊ちゃん、遅いのに制服のまんまでさあ。泣いたあとみたいな顔してた。正直萌えたね。……って、そうじゃないよ馬鹿。その前柴田と一緒だったでしょ?」
「なんで?」
「一緒に帰るの見たから。バイクのケツに乗っけてた」
「ケツとかゆーな」
論点をずらそうとしている尚志に口を尖らせながら、栞は胸像の輪郭を追う。尚志と比較すると若干稚拙なラインだが、下手というわけではない。伊達に美術部員をやっているわけではない。それでも、並べると稚拙に見えてしまう。
「そういや今日は先輩来てねえのな」
「だから柴田が泣かせたから」
「何を泣かせるってんだよ。想像で物を言うんじゃねえって」
柔らかく言って鉛筆を止め、ちらりと栞を見る。むっとした顔で絵を描いている。何故そんな表情を浮かべられなければならないのだ。栞に何をしたわけでもない。したのは、湊に対してだ。
確かに昨日尚志は、泣かせてやるつもりで湊を抱いたが、それは悪意からではない。泣かせたらもっと可愛いだろうなと思ってのことだ。
密かなアイドル、とか栞が言うのも無理はない。実際湊は可愛い男で、アイドルグループなんかに混じっていたとしてもそんなにおかしくない。その可愛い「湊ちゃん」に尚志が何をしたか知ったら、栞はどんなリアクションを返してくるだろうか。マジ蹴りされるかもしれない。まあ、そんなことわざわざ自己申告したりはしないのだが。
(やっぱ先輩かわいー)
うっすら昨日のことを思い出す。歯切れの悪かった別れ際は気になっているものの、抱いている時の初々しい湊はとても愛らしかった。雅宗には優しさが足りないだのなんだの指摘され、就寝前にそのことを少し一人で考えて、まあそういう説もあるよねとか結論に至ったわけだが、だからと言って済んだことだ。一人反省会を繰り広げても仕方ない。
(なーにが、「俺と寝てみない?」だ……何考えてんだ)
牛丼屋で玉子乗せの大盛りをかっ食らいながら、にこにことそれを観察している雅宗の内心を推し量っていた。
消化に悪そうな笑顔の裏側。よくわからない男。
明確な返事はしなかった。
「今日は遠慮しとく」
それだけ言って、また雅宗の車で家まで送ってもらった。尚志としてはあの時湊で満足していたし、雅宗は特に趣味ではない。ご無沙汰している時だったら首を縦に振ったかもしれないが、趣味の男を食ったばかりでそういう気分には生憎ならなかった。
「想像力なくちゃ、絵ー描けないよ」
「吉野はリアルに向き合えば。なんだっけこれの名前、えーと」
「マルス。結構いい男だよね」
描いている胸像を鉛筆で指し示した尚志に、栞はあっさり教えてくれた。いちいち名前は覚えていないが、まあ確かにいい男かもしれないと思う。胸板の辺りとか、結構好きだ。
「湊ちゃんとは似てねえぞ」
わざと湊を普段呼ばない名前で呼んでみて、栞を茶化す。コンビニで会った時、湊と何か喋ったのだろうか。うっすら気になったが、なんとなく聞けない。また泣かせた理由はなんだとか聞かれるのは面倒臭い。
「湊ちゃんは湊ちゃん、マルスはマルス。……んで柴田は、リアルに向き合ってるわけ?」
「リアル半分、幻想半分」
「……柴田ってたまに妙なこと言うよね。でも見た目と似合わねーってば。体育会系のくせになんで絵なんか描いてるの」
栞は失礼なことを言ったが、あまり尚志の癇に障ったりはしなかった。体育会系、とは良く言われる。放課後美術室にいるような人種ではないように見られる。実際体を動かすのは好きだし、体力は有り余っている。それでも絵を描くのは、もっと好きだ。
「上手くなりてえから」
「充分上手いじゃん……柴田それあてつけかなんか?」
……昨日、湊にも似たようなことを言われたのを思い出した。しかし何故そんなことを言われるのかが、尚志にはわからない。嫌味やあてつけでは、断じてない。自分の個性を伸ばせばいいじゃないかと思う。比べる必要などない。
こういうリアクションを取られるのは、若干うんざりする。
「うぜえぞ吉野。なんでそういうこと言うかな」
不機嫌な声を出した尚志に、栞は少し自己嫌悪したような顔を向けたが、やがて寝耳に水な科白を吐いた。
「湊ちゃんさぁ……進学、しないんだって。知ってる?」
こちらを見ないで唐突に告げられた言葉に、尚志は再び動かしていた鉛筆の動きを止めた。
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