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第13話 ノイズ

 がっ  がっ がん   がんっ  先ほどから耳を刺激する物音がうるさい。仕事終わりに英会話スクールに寄ってから遅く帰宅した雅宗は、なんの法則もないその音を聞きながら、煙草に火を点けた。  安らげない、音。  そろそろ止めに入ってやらないと、母親の出る幕となる。父親はいない。雅宗が小さい頃に離婚して、この家とほんの少しの慰謝料を母にくれて出て行ってしまった。そういうのは仕方ないと思うし、逃げたくなるのもわからなくはない。雅宗だって、そうしたいと思うことはままある。  尚志に描いてもらった絵は今、雅宗の部屋に置いてある。キャンバスは裏を向き、絵の中の自分は暗く壁を見つめている。飾る為に貰ったわけではない。自分の絵を飾るほどナルシストではない。雅宗はそれをくるりとひっくり返し、尚志を介して作られた自分を少しの間見つめた。  欲しかったわけではない。この絵がずっと尚志の元にあるのが嫌だったから引き取ったのだ。かと言って処分出来るほど非道でもない。自分の手を離れた絵がそんな扱いを受けるのは、尚志としても不本意だろう。  モデルになったのは、良くなかった。  軽い気持ちで引き受けたのは間違いだった。  尚志は描いてしまったのだ。見たくないものを。 (……見たくないもの)  雅宗は隣の部屋から聞こえる乱暴な物音に重いため息を吐きながら、煙草をもみ消して立ち上がった。 「響歌(きょうか)」  一応ノックをして、妹の部屋に入る。響歌は雅宗の双子の妹で、二卵性の男女だからそう似てはいない。椅子をがんがんと壁に打ち付けていた響歌は、入ってきた雅宗を確認して、わけのわからない言葉を叫びながら椅子をこちらに投げた。あまりコントロールが良いとは言えないそれは雅宗を通過して、背後の壁にぶち当たる。 「何か気に食わないことでもあったのか?」  椅子を拾い上げてちゃんと立て直すと、それが再び投げられないように腰掛ける。すると響歌はベッドの上にいくつもあった柔らかいぬいぐるみをぼすぼすと投げ始めた。ふにゃりとした犬のぬいぐるみが、雅宗の肩に当たった。 「響歌たん、響歌たん、深呼吸」  自分に当たった犬を拾い、まるでそれが喋っているかのように動かしてみせた。そのコミカルな動きと声に、響歌の投げる手が止まる。  力が抜けたようにぺたんとその場に体育座りをした響歌の白い脚は、細くて貧弱だった。ほとんど家を出ないので陽に焼けていない素肌。化粧っ気のない顔は泣いていたのか少し瞼が重たい。同じ年齢には見えない幼い表情。 「パンツが丸見えだよ」  困ったように笑って、ベッドからタオルケットを掴んでむき出しの脚にかけてやる。響歌は肌に優しい感触に落ち着いたのか、もぞりとくるまった。 「……雅宗ぇ」  小さくこぼれた響歌の声は、やはり幼さを残している。少し乱れた髪を直すように撫で、冷たいフローリングに同じように腰を落とす。  座っても体の大きさの違う響歌とは目線が違う。雅宗の体に猫のようにすり寄った響歌は、ぎゅうっとその服を掴んだ。 「今日、病院の日だったろ? ちゃんと薬貰ってきたのか」 「うん……」 「ちゃんと飲んだ?」 「……まだ……」  だるそうに呟いた響歌は、床に突かれた雅宗のごつごつとした手に小さな手を重ね、指の隙間に自分の指を入れる。不意に絡んだ体温に、雅宗はまた困った顔をしたが振りほどくことはしなかった。  自分たちは兄妹だ。しかも双子。  同じ子宮の中で育ち、同じ時に生まれた。  それなのに、響歌の時間は雅宗とは違うふうに流れている。永遠に大人になれない。子供のままだ。響歌を形作る肉体は大人になっても、心が成長していない。  多分、ずっとこのまま。  たまにヒステリーを起こして、さっきのような状態になる。それは時間を問わず、大人しく寝ていたかと思ったら怖い夢を見たと言っては夜中に騒ぎ出したり、雅宗の帰りが遅いと言っては部屋をめちゃくちゃにしたりする。傍にいるこちらも精神的に結構きつい。  響歌の望みどおり、ずっと一緒にいることは出来ない。仕事があるし、他にも色々用事はある。時間が許したとしても、息が詰まる。  結果、家に帰る時間が遅くなる。特定の恋人はいない。家族のことを話すのが嫌で、深いところまで入り込むのを許さない性格が災いしている。それでも一人で時間を潰すのは寂しくて、ベッドの相手を探したり、友人のところへ遊びに行ったりする。  このまま響歌と共に人生を食い潰してゆくのは、非常に気が滅入った。 「雅宗……だっこして?」  小さい頃父の膝に乗ったように雅宗の膝に乗って、響歌が胸元に寄りかかってきた。ちょっと難しい顔をしながら大人の女の体重を受け止めて、床に落ちたタオルケットをまた響歌にかける。 「腕、ぎゅうって」  先ほどのヒステリー状態からは想像出来ないような可愛らしい笑みを浮かべ、腕を持って自分の体を抱き締めさせた響歌に、雅宗は曖昧に笑みを返すしか出来なかった。 「ずっとこうしてて」 「ずっとは無理だよ」 「ずっと傍にいてね。パパみたくいなくならないで」 「……響歌」  歪んだ雅宗の顔にちらりと不思議な視線を向けた響歌は、抱いている腕をきつく握り締めた。手のひらは薄く汗ばんでいた。その手が自分を解放してくれることを強く望んでいるのを、雅宗は知っている。  ずっと一緒にいることは出来ない。  自分まで歪んでゆくのに気づいてしまったから。  尚志の描いた自分の絵の中に、響歌を見つけてしまったから。狂気は感染する。傍にいる人間までも歪めてゆく。 (怖いなあ……あの子)  このままもっと、今よりも上手くなったらどうなるのだろう。見たくないものをこれ以上見せられるのは辛い。もう尚志のモデルはやれない。見たくない。  見られたくなかった。

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