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第15話 先輩と敬語
人ごみの中を全力疾走で追いかけて、見失うことなく湊の細い腕を捕まえる。掴んだ尚志の手を振りほどくようにした彼の顔はやはり不機嫌なままで、ふと掴む力が抜けた。
「怒ってんの?」
無言の湊に戸惑いつつもその隣のポジションを保持し、自分より目線の低い先輩の顔をちらりと横目で盗み見る。濃い色のシャツを着ているので肌が白いのが際立つ。こうやって間近で見ると、本当に可愛らしい男だ。けれど今はその可愛い顔が不機嫌に歪み、眉間にはしわが寄っている。湊は確かに怒っているように見えるのだが、それ以外にも色々と複雑な感情が入り混じっていた。しかしその感情の正体が尚志には良くわからない。
「――別に」
「蹴ったじゃん」
「だからごめんて言った」
尚志の視線から逃げるように顔を背け、湊の歩行速度が上がる。全然謝っている態度ではないが、尚志はあえてそれに対し責めることはせず、同じように歩みを早める。尚志の方が背が高い。追いつけないはずがない。
「なあ、どっか行くんだろ? 駅戻る? それともこのままどっか行く? ……あ、飯食う? 腹減らね? もうすぐ昼だし。先輩何が好き?」
食べ物で釣るなんて雅宗と一緒だ。不意に思ったが、とりあえずどうにか湊の機嫌を上向かせてやらねばならない。せっかくの初デートだというのに、怒らせたまま帰られてしまうなんて、あまりに無様だ。
尚志の内心を知ってか知らずか、湊はやっとこちらを向いた。上目遣いにじっと見て、一度ため息をついた。
「あのね、柴田」
「……何?」
「僕のこと先輩て呼ぶなら敬語使ってくれる?」
急に距離を置くようなことを蒸し返した湊に、尚志の顔が若干曇る。別に敬語で喋れと言うならそうしても良い。一つ下の後輩にタメ口を利かれるのがむかつくなら、譲歩してやっても良い。湊が単なる美術部の先輩なら、そうする。
しかし彼は既に尚志と一線を超えている。どこかで「もう俺の物」という意識がある。勿論湊は物ではない。所有しようとは思わない。
それでも、なんとなく壁を作るような感じがして、気が進まない。
黙り込んだ尚志から少し目を外し、小さな声で湊が続けた。
「先輩て呼ばないなら、敬語じゃなくてもいいけど」
「……あ?」
言っている意味がわからなくて聞き返した尚志に、湊は気まずそうな顔をしたが、「わかんないならいい」とすぐに言ってまた早歩きになった。
(なんだ? 今のは)
良くわからない男だなあと思いながら、ほんの少し離れてしまった湊に追いつく。しばらく無言で一緒に歩いていたが、ソースの焼ける匂いのする店が視界に入った。もしかしたら空腹で機嫌が悪いのかもしれない。違うかもしれないが、とりあえず現在の流れを変えなければと、尚志は湊の手を軽く引く。
「なあ、お好み焼きなんて食わね……食いません? 俺、焼いてあげますから。何拗ねてんだか知りませんけど、それでご機嫌直して」
途中から言葉を直した尚志にどうしてかぐったりした顔を見せた湊は、それでも空腹だったのか尚志に倣って暖簾をくぐった。
角の奥まった席に案内された。人目があまりない席は居心地が良く、豊富なメニューからお好み焼きと焼きそばなんかを注文して、とりあえずドリンクバーで何か貰ってこようと尚志は腰を上げた。
「何にします? えーと、オレンジと、コーラと、ウーロン茶と……」
「自分で取ってくるからいい。柴田先に行ってくれば」
「んじゃ先輩お先にどうぞ」
すとんと腰を再び落とした尚志に、何が不満なのか湊がテーブルの端をかたことと指で叩いた。何故こんなリアクションを取られるのかわからない尚志は、不思議な顔を返すしかない。
さっきから湊がわからない。敬語にしろと言うから無理にシフトしたのに、何が気に入らないのだ。
「じゃあ、貰ってくるけど」
立ち上がった湊はすたすたとドリンクバーのコーナーまで行ってしまった。
(……なんなんだ)
湊が立ったあとすぐに店員が頼んだ物を持ってきたので、油をひいて焼きそばを鉄板に広げ始める。手馴れた調子でじゅうじゅうと焼いていたら、何故か湊がグラスを二つ持って戻ってきた。
「コーラで良かった?」
「え……と、どうも」
かえしを鉄板の縁に置いて冷たいグラスを受け取りながら、向かいに座った湊をちらりと見る。尚志に渡したのと同じ物をストローで飲みながら、手持ち無沙汰に焼きそばが焼けるのを待っている。
何か言うべきだろうか。
美術室にいる時は、描くことに集中するのであまり無駄口は叩かない。先日向かい合ってお互いを描いていた時も、そんなに言葉を交わしたわけではなかった。
言葉など必要ではない。物を見る目と描く手があれば、それで良い。
けれど今は目の前にキャンバスがあるわけではない。何か喋らなければ、間が保たない。
「なあ……先輩、」
「――ん?」
「卒業したら、どうすんのか……教えてくれないんですか?」
「……ああ、それ……」
湊は小さく笑んで、テーブルに肘を付いた。言おうかどうか迷っているようで、おしぼりで手を拭いたりストローを弄んだりしながら、うーんと唸る。
「進学って言うのはなんか違う気がするんだけどさ……大学じゃないとこに行く」
「専門学校?」
「ちょっと違う。うちの爺ちゃんの知り合いんとこで、二年くらい篭る予定。その間に、絵は描くかもしれないし、そんな暇ないかもしれない」
「……篭るって何よ?」
尚志は思わず敬語を忘れて聞き返した。
「家業を継ぐ為の勉強。まあそういうわけで、僕は大学には行かない。……ほんとはそっち系の大学行くっていう選択もあるんだけど、爺ちゃん結構年だし、美大じゃないなら四年よりは二年のがいいかなって」
「そっち系って言われても……あれ、でも、先輩んちって普通の会社員とかって前言ってませんでしたっけ?」
どっち系なのだと見当をつけかねている尚志に構わず、湊は鉄板の上の焼きそばを箸でつまんだ。
「答えてるばっかじゃフェアじゃないんで今度はこっちから質問。……食べながらでいいけど。ほら、もうこれ食べていいんじゃない?」
確かに程よく焼けた頃ではあった。
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