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第16話 噛み合わない二人
湊の取り皿に出来上がった焼きそばを盛ってやって、自分のも取って鉄板の上を一旦綺麗にする。続けてお好み焼きを焼いてしまおうかと丼に手を伸ばした尚志を制して、湊が質問した。
「柴田はこの前さ……僕にあんなことしたけど、あれって初めてじゃないよな?」
「え? 初めてじゃん……じゃないですか。あれの前に、いつ俺がしました? 美術室のもカウントされたりするんですかね」
「もーいいよ、それ……ぎこちないし。普通に喋れば?」
だったら最初から敬語で喋れなどと言わなければ良いのに。一体何が目的だったのかまるでわからない。しかしもう良いというのであれば、そうさせてもらうことにする。
「……んで、ええと、なんの話だっけ?」
「だから、僕の前にも誰かとああいうことあったよね? って聞いたんだ。柴田なんか、段取りとか……慣れてたし……」
湊はどこか言いにくそうに目を彷徨わせ、焼きそばにマヨネーズをかけている。かける? と問われて尚志は首を横に振った。マヨネーズはそんなに好きではない。
「慣れてたら何? それって先輩の中でなんか問題のあること?」
何が聞きたいのか良くわからなくて不可解な表情を浮かべながら、青海苔を散らした麺を口に運ぶ。段取りがどうのってなんだ。慣れていた方が良いではないか。もしかしてお互い初心者でしたかった、とかそういうことだろうか。だとしたら非常にくだらない問題だ、と尚志は感じる。
湊は多分、初めてだった。
相手にも同じことを求めるのだろうか。ちょっと面倒臭いことを言う男だと思いながら、尚志はほんのり眉を寄せた。
「俺が童貞だった方が嬉しかったんだ?」
「ばっ……柴田っ!」
疑問をストレートに聞いたら、湊が顔を赤くしながら周囲をきょろきょろと見回した。幸いにしてこの席はあまり周囲が気にならない配置だったし、それほど大きな声でもなかったのだから、気にする必要などない。それでも気にしてしまう湊は、一度だけとは言え既に尚志に体を開いたというのに、まだまだ初々しい。
相手の反応を可愛らしいと取れたら良かったのかもしれないが、理解するには尚志はまだ青すぎた。何をつまらない問題を提示しているのかと、浅い部分しか見ることが出来ない。
「知ってると思うけど、初めてって、一回しかねえんだよ。先輩だって、次に俺じゃない誰かとする時は、初めてじゃない。だけどそんなんに価値見出すわけ? 俺にはわかんねえ。……そりゃ、初めてってゆーのは、付加価値あるかもしんねえけど」
「……あそう。そういうこと言うんだ、柴田って」
何が気に障ったのか、湊は数秒沈黙の後、不機嫌そうに呟いて肘をついた。尚志から完全に目を逸らし横を向いてしまった湊が理解出来なくて、尚志も思わず黙り込む。
(なんか……会話が噛み合ってねえ)
湊の見ているところが自分と違う気がして、どうにも穏やかな会話を続けられない。美術室にいる時はお互いこうではないのに、どうしてだろう。
筆を持っていないと駄目なのだろうか。
単なる先輩後輩だった方が良かったのだろうか。深いところへ、入り込まない方が良かったのかも。けれど湊は家業がどうのとか言って、絵は描かないかもしれないなどとあっさり言う。本当にそんなことが出来るだろうか。
ずっと描いてきたのに。
二年も、どこに篭るというのか。
(言うの嫌がってたしな……)
言いたくないような家業なのだろうか。一体どんな職業なのだと、まだ焼きそばを食べ終わっていないのにお好み焼きのボウルに手を伸ばし、無言でそれを焼きながら尚志は考えた。
何も言わなくなった尚志を、ちらりと見たが湊も何も言わなかった。
沈黙の中、鉄板だけがじゅうじゅうと音を立てていた。
無言でお好み焼きを焼いている後輩を見つめながら、湊は内心、誘ったりしなければ良かったと後悔していた。
こんな展開にしたいわけではない。尚志のことは好きだ。しばらく遠慮したいとは言ったものの、この前体を許してしまったのだって実はそれほど嫌だったわけではない。ただ体がきつかったのは本当だったので、そう頻繁にあんなことをされるのは怖い。
自分の体が変わってしまうのが怖い。
あれが本当に初めてだった。女の子としたこともない。正真正銘、初めての経験だ。
自分を特に清らかだとか思ったりはしない。年相応に性的なことには興味があるし、一人でしたりするのも、ごく普通の行為だ。湊は自分のセクシャリティについて改めて考えたりすることはなかったが、一人で体を慰める時考えてしまうのは尚志のことだった。
(後輩で、男なのに)
自分の手が尚志の手だったらいいのに、と思いながら、けれどそれ以上のことは想定したり出来なかった。脚を開いて体の奥まで尚志に侵食されるなんて、思わなかった。男同士がどういうことをするのか湊は良く知らなかったし、自分は女ではないのだから、先日されたようなことになるとは想像していなかった。
(なのに、あんなこと)
勝手知ったる感じで簡単に自分を抱いた。
何がなんだかわからなかった。すごく苦しくて、泣きそうになった。実際泣いたかもしれない。詳細には覚えていない。
それでもすぐ傍にある尚志の体温が胸を締め付ける感じがして、拒んだり出来なかった。
絵を描く時と、似た目をしていたから。
(柴田はかっこいい)
凄い目をしてる。
たまに尚志と向き合って絵を描く時、その目に殺されそうになる。
視線が怖いというわけではない。ただ、隠しているものまで暴かれそうな目で見るから、無駄にどきどきしてしまう。それは自分をモデルにしている時だけ、というわけではない。尚志は描く対象を見る時、常にああいう目をする。あれは無意識だ。
多分自分は、あんな目は出来ないのだろうと湊は思う。
尚志のような絵は、描けないのだろうと……思う。
模倣したいわけではない。尚志になりたいわけではない。それでもどこかで自分と比較している。尚志より上手くなりたい。もっと上手に。人の心を動かすほどに。描かなきゃ。もっと。もっと。……もっと。
……尚志を好きなのに、負けたくないという気持ちも強くあって、ある日湊はふと疲れてしまった。
夜中玉砂利の敷かれた地面をざりざりと踏みしめながら、人気の途絶えた境内を一人で歩いた。たまに煮詰まった時しばらくそうやって歩いていると、やがて心が落ち着いた。
玉砂利は清めるために敷いてある。舗装された歩道に比べたら歩きにくいかもしれないが、湊は好きだった。
人の多いところは苦手だ。静かな場所が良い。
「柴田……あのさ」
相変わらず無言でお好み焼きをひっくり返してソースを塗っていた尚志に、湊は先ほど自分が作り上げてしまった若干険悪な空気を和らげようと、努めて優しい口調を作った。
「食べ終わったら、美術館行こう。今クリムト展やってるんだ」
誘われた尚志はちょっと考えるようにしたが、やがて先ほどのことなど気にした様子もなく、気安い笑顔を見せた。
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