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第17話 お社の坊っちゃん
家に帰ってきて若干遅い夕食を摂ったあと、少しの間尚志はベッドに転がった。結構歩いたが足が疲れたというわけではない。ただ、なんとなく気疲れしたような妙なだるさが残っている。
(楽しかったんだか……なんなんだか……)
この前軽く断られたものの、出来ることならまた湊に色々したかったというのが本音だ。けれど何もなかった。
何かあったと言えば、蹴られた、拗ねられた、会話のすれ違いがあった、……云々。微妙に疲れてしまっても仕方ない。そんなことでへこんだりするやわな性格ではないが、湊のしたいことが今一つ見えなくて困る。
行った先が美術館ということもあって、そこではあまり会話がなかった。
一人でもたまに足を向ける。人の絵を見るのは勉強になる。クリムトは結構好きだし、常設の絵画やオブジェも面白い。何が面白いのかわからない人間にはまるでわからないかもしれないが、物心ついた時から絵は身近にあったし、尚志にとっては興味のあることの一つだ。
父が画商だ。外でバイトをした経験はないが、画廊の店番をさせられることはある。店番と言っても本当に番犬のような物なのだが、留守にするよりは尚志がいた方がまだしもだという理由からそこにいる。上の兄二人はそういうことに興味がなく、まるで手伝ったりしない。
尚志としては絵に囲まれた部屋にいるのは苦でなかった。すみっこで自分の絵を描いたりしている。絵の具の匂いが落ち着くし、パネルに紙を張る作業だって嫌いではない。描かない自分を想像出来ないし、もっと上手くなりたいから描く。
(結局……聞けなかったよなあ)
湊が卒業したら行く先を聞けなかった。
卒業したら、尚志とは会わなくなるのだろうか。
そもそも彼が美大に行く選択をしていたところで、卒業後会うことがあるのだろうか? それがわからない。これまでだって、部活以外で湊と絡むことはなかったのだ。ようやく連絡先を交換したばかりで、どこに住んでいるのかも知らない。今日も帰り際送っていこうかと言ったのに、
「女の子じゃないし」
とあっさり断られた。少しつれないのではないか。送り狼にでもなると思われたのか。
(まあ確かにちょっと、下心あったけど)
家業とやらも気になっていたし、ちゃっかり家に上がりこんで少しくらい何か出来たら嬉しいとか思ったのは否めない。しかし断られてしまったものをしつこくするのは尚志的に良くなかった。
(先輩は……描かなくて平気なんかな)
今までやってきたことは何だったのか、と疑問に思う。人の人生だし、色々都合もあるのだろうが、その都合を具体的に聞いていない。尚志に言うべきことでもないのかもしれない。重い口を無理に開かせるのは好みではない。自分から言わないなら、もう聞くのはやめようかと思った。
ごろんと寝返りを打って、床に放置されていたスケッチブックに手を伸ばした。体を起こして白いページをめくり、芯の柔らかい鉛筆を握る。本当は本人が目の前にいた方が良いのだが、いないので仕方なく頭の中に残っている湊のラインを追う。
細いうなじ。なで肩気味の華奢な体。幼い顔の造り。
「……やりてえなあ」
ふと鉛筆を止めて呟いた。
目の前にいたらそれは見たままを描くのだが、想像でしかないのでどんどん思考が違う方向へ流れてゆく。どんなだったっけと考えるたびに、先日自分が抱いた素肌を思い起こしてしまってどうにもいけない。ばん、とスケッチブックを額にぶつけて、ちょっと脱線してきてしまった己をたしなめる。
……柴田、
柴、……
湊の声が聞こえた気がして、尚志はぶるんと一度頭を強く振った。開けたばかりのへリックスが少し疼いた。
湊が自分を呼ぶ声。
柴田、と呼ばれるのは結構好きだ。尚志という名前より、濁点がある分なんとなく締りがある気がする。そんなことをふと考えていたら、唐突に尚志は湊の言外の言葉にようやく気づいた。
「……うはあ。鈍くせえ」
再びスケッチブックをばんばんと額にぶつけ、持っていた鉛筆の先を無意識に齧って思わず歯で折った。独特の味が広がり、すぐに顔をしかめてぺっと吐き出す。何やってんだ俺、あほか、愚鈍だ、あまりに鈍い、とぐるぐる言葉が回り出す。
彼は暗に、湊と呼んで欲しかったのではないか。先輩と呼ばないなら敬語じゃなくて良い、というのは、そういう意味だったのではないだろうか。言葉通りに受け取って敬語に直した尚志に苛立ったのは、つまりそういうことではないかと、遅い結論に至る。
「おっせえよ俺!」
がるっと吼えるような表情で枕元に投げていたスマートフォンを拾い、連絡先をスクロールする。湊の名前で止まり、かけようか、かけまいか、と数秒迷う。既に11時近いことに気づく。
こんな時間にかけたら迷惑だろうか?
「明日に……するかあ」
連絡先を閉じて、尚志は軽くため息をついた。今日は土曜だし、まだ起きていてもおかしくない時間ではあったが、なんとなく電話をかけることが出来ないまま、折れた鉛筆の芯をカッターナイフで削り始めた。
(呼んでほしいなら、そう言えっての……)
はっきりしない男だが、そういうとこ結構可愛いかも、なんて思ったら再び邪な感情が沸いて来た。
やりたくて仕方ない年頃だ。
尚志が鉛筆を削っている頃、湊はじゃりじゃりと玉砂利を踏み締めていた。
月の綺麗な夜だ。赤い鳥居から拝殿へ続く歩きにくい道を一人で歩いている。
その姿は暗闇に白く浮かんでいた。
昼間着ていた濃い色のシャツから着替えた彼の恰好は今、神社という場所に非常に溶け込んでいる。一目で神職とわかる白い姿。
勿論まだ神職に就いているわけではない。見習いだ。美大に行っても一向に構わないと祖父は言ったが、悩んだ末にその道は捨てた。
湊の祖父がここを守っている。
婿養子の父は普通の会社員なので、彼が代わりに神職に就くつもりだった。就かなくても良いと言われた。それでも選んでしまったのは湊自身であり、ある種「逃げ」が入っていたのを自分で理解している。それでも、この場所が好きだったというのも大きい。
ここにいるのが好きだ。
特に夜中に歩くのが好きだった。眠れない夜もある。今夜は落ち着かない。眠ることがなかなか出来ない。
ざり、
自分以外の気配に気づき、湊は背後を振り向いた。
鳥居をくぐって数メートルのところに見える人影。湊よりも白い、まるで陽に当たっていないような印象の女が立っていた。
「……こんばんは」
淡い色のスカートが揺れて、優しく聞こえた湊の声に引かれるように近づいてきた。
「こんばんは」
女がにこりと微笑み返し、玉砂利に足を取られそうになりながら歩いてくる。右手には片目の取れかかった犬のぬいぐるみがぶら下がっている。それに視線をやり、湊はほんの少し訝しげな顔をしたが、ゆっくりとこちらへ向かってくる人影から逃げることはしなかった。
「お社 の、坊ちゃん?」
「……え? あ……、そう呼ぶ人もいますね」
「ねんねしないの?」
屈託のない笑顔で湊のすぐ傍までやってきた女は、年齢が良くわからなかった。年上にも見えるし、もっとずっと幼くも見える。誰だろう、と湊は考えたが、生憎記憶にはなかった。
「ええと、眠れなくて……」
「そお。響歌と一緒ね」
何が楽しいのかくすくすと笑って、急にしゃがみこむ。何をするのかと見ていたら、履いている白い袴の裾をちょんとつまみ、「これかーわい」と呟いた。
「お雛様みたい」
「……いや、ちょっと違う気が」
湊は苦笑して、同じようにしゃがみ込んだ。
「女の人が一人でこんな時間歩いてたら駄目ですよ」
「んー……」
響歌は考えるように顔を上げ、空に浮かぶ月をしばらくじっと見つめていた。
その横顔を手持ち無沙汰でなんとなく見ていたら、ふと月から湊へと視線が移る。その目はやはり、年齢不詳だ。無垢なのか、底が見えないのか、あるいは単に何も考えていないだけなのか。
「ねえ、お社の坊ちゃん。響歌のお友達にならない?」
「――は?」
「眠れない時、またここに来るから。……ね」
にい、と笑って響歌は立ち上がった。得体の知れない笑顔に湊は困惑したが、返事をする前にその姿はざりざりと音を立てて闇の中へ消えてしまった。
空気が妙にぬるい。
暗闇が深さを増していた。
いつの間にか月が雲間に隠れていた。
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