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第18話 君が優しくなる為に

 目を開けると雅宗が尚志の寝顔を見つめていた。寝起きの回らない頭で、どうして彼がここにいるのかわからずにしばらしくその顔を見つめ返す。どこから灰皿を持ってきたものか、人の部屋で勝手に煙草を吸っている。 「あ、やっと起きたなあ」  雅宗はにかりと笑んで煙草を一旦灰皿に置くと、薄い掛け布団の中にいる尚志をその上からぽんぽんと叩いた。 「……なんだっけ?」  はっきりしない意識を払うように起き上がってぎゅうと伸びをして、ここにいる理由を問うような視線を向ける。  雅宗を部屋に呼んだ覚えはなかった。けたたましい音を立てて尚志を起こしてくれる目覚まし時計は、先日うっかり踏みつけて壊してしまったので今はない。時間を確かめようと枕元に置いてあったはずのスマートフォンを探るが、何故か見当たらなかった。8時にはアラームが鳴るようにセットしておいたはずなのだが、うるさくてその辺に投げてしまったのだろうか。  尚志は一度大きなあくびをして、 「今何時?」  起きたばかりで少し掠れた声を上げた。雅宗は腕時計をちらりと見、もうすぐお昼、と教えてくれる。 「昼!? やっべえ寝過ごした。なんで起こしてくんねえんだよ。……てゆうか、なんでここにいるんだ」 「ちょっと昨日のこと気になったもんだから、つい。おばさんに『尚志くんにモデル頼まれててー』なんて言って上がりこんだ」 「尚弥んとこ来たんじゃないんだ?」 「しょうくん出かけてるよ。デートだって」  嘘をついたことに対してまるで悪びれることもせず、雅宗は笑う。それからごそごそと持参した紙袋を持ち出して、中身を探り尚志に手渡した。数枚のCD。 「これ。この前牛丼奢ってやった時に、貸してって言ってたろ。他にも何枚か適当にチョイスしてきたから」 「……あ? ああ、うん。そういや」  自分ではあまり積極的には聴かない女性ボーカルのアルバムだ。買うほどではないが、結構いいなと思ったのでこの前なんとなく言った。 「このアーティストとか声が凄く綺麗だよ。超お勧め」 「うんまあ。あんま洋楽わかんねんだけど……サンキュー……」  受け取ってベッドから這い出そうとしたら、雅宗の横にスケッチブックが広げられているのに気づいた。昨夜寝る前に描いていた、湊の絵。途中でやめてしまった。 「あ。見ちゃ駄目だったか?」  胡乱な表情に雅宗はスケッチブックを閉じる。そういうわけじゃないけど、と呟いてベッドの縁に腰掛けた尚志は返されたスケッチブックをCDとは逆の手で受け取る。裸の上半身にボクサーパンツという恰好に、雅宗の視線が注がれる。 「結構逞しいね。女の子にもモテるんじゃない?」 「さあどうだろ」 「興味ないんだ?」 「ねえなあ……なんでだか」  本当に興味がなさそうにシャツを着ている尚志の体を無遠慮に見つめながら、雅宗は話題を変えた。 「しかし尚志くんは、絵が上手だな。モデルやってるより、描いたのを見てる方が楽しいわ。君のお父さんも本望だろ」  画商をやっている父も絵を描く。しかし自分で描くより商売に向いていたのか、途中からそちらに行ってしまった。自分の息子が同じことに興味を持ってくれてさぞかし嬉しいだろう、と雅宗は言いたいのだろうが、別に尚志としては父の存在などまるで関係がなかった。 (まあ、環境はあるだろうけど)  以前バイクが欲しいからという理由でバイトをしようとした尚志に、父はあっさり「そんな時間があるなら描け」と不満げに資金を出してくれた。それ以降、すねかじりとは頭の隅にありながらも時間を絵に注いでいる。 「親父はどうでもいい。描くの好きだから」 「ふうん。……んで? スケブの描き途中の絵、昨日会った子だよね。あのあとどうなった?」 「……まあ、普通に」  言い淀んだ尚志に、雅宗はうっすら困った顔をした。自分と一緒に喋っているところを足蹴にされたのを気にしているのかもしれない。  別に雅宗が悪いわけではない。単にタイミングが悪かっただけだ。尚志は少し考えるように沈黙してから、 「なあ、俺って……」 「ん?」 「マジで、優しさが足りねえんかな」  パワーダウンした声で呟いた。 「――昨日ベッドで、なんか言われたか。この前尚志くんがやらかしちゃったのと同一人物?」 「下手踏んだみたいな言い方すんな。それに昨日は、……してねえし」 「させてくんなかったとか。もうやだって」 「うっせえ」  それが事実だという自覚があったので尚志は余計にむっとした。雅宗はちょっと尚志から視線を外し、また「ふうん」と言った。  会話が途切れた。  間を保たそうと、立ち上がって先ほど借りたばかりのCDのケースを開いてプレイヤーの中に突っ込む。超お勧めと言われた女性が、美しい歌声を上げ始める。 「気持ちいいだろ」  確かに、耳に気持ちのいい声だった。尚志は答えず、ベッドに置きっぱなしにしたスケッチブックを拾い上げて、床に座り込んでいる雅宗の前に腰を下ろした。ベッドの縁に寄りかかり、いきなり鉛筆を握って描き始めようとしている相手に、雅宗の表情が幾分曇る。 「……俺を描くのか?」 「そう言って上がりこんだんだろ。嘘にしとかなくてもいい」 「嘘のままでもいいけど」 「なんで」  紙の上を鉛筆が滑る音が歌声に微かに混じる。雅宗はどうしてか視線をうろうろと彷徨わせていたが、ふと尚志に近づいて鉛筆を持つ右手をぎゅっと握った。 「――ちょ」  左手も握られて、スケッチブックが膝の上に落ちる。なんだ? と思ったら両手を封じられたまま、この前と同じように脈絡なく唇を奪われた。そのまま背後のベッドに半身を倒される。  雅宗の体重が、かかった。 「……えーと、何してんの?」 「君には優しさが足りない」 「さっきの会話の続きか? でもこの構図は意味わかんねえ」  その腕を解くことなど容易い。力を込めて雅宗から逃れようとしたら、とても優しく見えるたれた目が細められて、握る手の力が強くなったのでどきんとした。 (なんだこれ……)  一瞬力が抜けた尚志に薄く笑みを見せた雅宗は、 「尚志くんに教えてあげるよ。……色々。受身は、経験したことないだろ」  あっさりと想定外のことを提案した。ちょっと目が点になる。  まさか尚志を抱こうというのか。確かに先日してみない? とは言われたが、自分がそっちだなんて尚志の考えの範疇にはない。  尚志は可愛らしい男が趣味だが、雅宗みたいな自分よりも大きい男でも、相手をする自信はある。嫌いなわけじゃない。気持ちよければそれでいい。 (……でも、これは、なんというか)  困ってしまった。  力ずくでねじ伏せられた経験などなかった。 「君が優しくなる為の、勉強だとでも思えばいい」  とても優しい口調で囁いて、雅宗は開けたばかりのピアスを口に含んだ。

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