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第20話 描かれる側

 古文の授業が眠たくて仕方なかった吉野栞は、窓から見えるよそのクラスの体育の光景をぼんやり眺めていた。朝食を摂ってこなかったので、そろそろ胃袋の方も限界だ。あと十五分もすれば昼休みになるのだから頑張れば良いのだろうが、教壇に立つ定年間近の教師の声は栞の集中力を緩和させて仕方ない。 (あ……柴田)  大きなあくびを教科書で隠しながら人の動きを目で追っていたら、同じ部の男をグラウンドに見つける。  結構大きい男だし、体つきがとても綺麗だから目立つ。綺麗と言っても華奢の類とは程遠い。綺麗な、男の体だ。動いてる方が体も満足させてあげられるだろうに、と以前彼に言ったのと似たようなことをまた思う。  なんとなくため息が出た。 (あ、ボール奪われた)  憂鬱なため息のあとに、くすりと笑みが漏れる。サッカーボールを蹴ろうとしたその時、尚志は何故かそれをかすって少しバランスを崩し、相手側にボールを奪われた。何をやっているのだろうか。  何をやっているのかと言えば……。  栞のアイドルである湊先輩が、どうも近頃尚志と微妙な感じだ。まさか付き合ってる? いやまさかね、と自問自答しつつぐりぐりとシャープペンシルの芯をノートに押し付ける。けれどどちらにも彼女と呼べるような存在は今のところいなそうだし、若さゆえの過ちなんてあったりするんだろうか、と再び自問する。勿論答えは用意されていない。 (男子校じゃあるまいしなあ)  ここにこんなに可愛い子(自画自賛)がいるというのに、男同士でどうにかなったりするものだろうか?  尚志とは同じクラスになったことはないが、美術部に入部した一年の春からの付き合いだからそれなりに知っているつもりだ。結構普通にモテるくせに、彼女を作らない。そういうことに興味がなさそうに思える。 (美術一筋ってか? ……でもなあ)  そんな不健康な男にも見えない。めちゃくちゃ「雄」の匂いがする。絵だけを描いていたら持て余しそうなくらい。……と考えてから、何を卑猥な表現をしているのだ、と栞は頭を振った。  勿論栞とて絵を描くのは大好きだし、尚志に負けたくないと思うからこそ努力している。頑張ってもレベルが違うのは知っている。同い年なのになんであんなセンス違うかな、と内心愚痴がこぼれるが、言ってもどうしようもないことだし、自己嫌悪が募るだけだった。 (柴田なんて……)  たとえばいかにも美術部員的な外見だったら救われた。けれど尚志に繊細さはないし、いかにも運動部、絵って何それうまい? 的な外見の男なのだ。それなのに、さくっと賞は取るし、その筆先に迷いが見えることがない。やはりどう考えても悔しい。 (ああいうのは、描かれる側にでも回ってろっての)  ふと浮かんだ考えに、栞はペンのぐりぐりを一旦止めた。  ……描かれる側。  いいかも、と誰にも聞こえない小さな声で呟く。 (柴田描いてみたいなあ……ちょっと上脱がせてさ)  下心ではなく単に描く対象として、尚志の体は栞の目に非常に魅力的に映った。あの見た目は、デッサンの材料として逸材だ。一度思いついてしまうと、どうにもうずうず描きたくなってきてしまう。  言ってみようかなあ? と考えて、しかし美術室で脱がせるのか、それ以前に脱いでくれるだろうか、ていうか脱いでくれと尚志本人に自分は言えるのか、誤解されやしないか、とまたつまらない問答が栞の頭の中で交錯する。  気があるなんて思われるのは実に癪だ。それでなくても尚志は可愛い可愛い湊ちゃんと今非常に微妙な距離なのだ。しかしその「微妙」を本人に問い質したとしても、適当にはぐらかされてしまうのがオチだった。  そんなことをぐだぐだ考えていたものだから、 「じゃあ吉野さん、次読んで」  と先生にいきなり指名されても、どこを読んで良いものか皆目不明で停止するしかなかった。 「脱げって……おま」  放課後いつものように美術室にやってきた尚志に、栞は何気なさを装いながらも意を決して進言した。当の尚志はぎょっとしたように栞を数秒見て、やがてだるそうにイーゼルを引っ張ってきて椅子に腰を下ろす。 「何そのダルダル感。そんなんで一週間乗り切れないよ」 「色々あんだよ俺にもさあ」 「今日体育の時間、ゴール逃してたよね」  指摘されて尚志はちょっと嫌そうに眉を寄せる。それから話を逸らす為か、先ほど栞が提案した件を元に戻した。 「で、吉野。何よその脱げってのは」 「えーとだから……描いてみたいなあって。柴田わりといい体してんじゃん? なんかこー、絵を描く者として、むらむらと」 「発情してんのか」 「――馬っ鹿じゃないの?」  冷ややかに言った栞に、尚志はうーん、と考えながら、自分の制服のシャツのボタンを一つ外し、何を確認しているのか中を覗き込んでいる。いきなりこの場で脱ぎ始めるのかと誤解した栞は、瞬間血管が収縮した。しかしボタンはすぐに留め直され、ネクタイがきゅっと締まる。 「ちょっと、今日は無理だなあ」 「え……今日はってことは、別の日ならいいってこと?」 「嫌ってこたねえよ、まあ」  結構あっけなく言われた。  同級生の女の子の前で脱いでそれを描かれる、ということに抵抗はないのだろうかと、十中八九断られるに違いないと考えていた栞はきょとんとした顔になる。 「……あー……と、じゃあ、いつならいいわけ?」 「いつだろうな。とりあえず痕消えてからじゃねえと」 「痕?」 「いや何でも」  尚志は苦笑いして、先日から描いているマグリットの模写の続きを始めた。綺麗な青い空と白い雲が広がる元絵を見つめ筆を動かしながら、尚志はふと思い出したように栞の方を向かずに問うた。 「なあところで、シンセンてなんだろう」 「は? 何よ突然。……新鮮なお肉、とか?」 「肉食いたいのか」 「てゆーか、何が聞きたいんだかわかんないし」 「シンセンをつまみ食いって、どういう意味だろ。文脈変じゃね?」  尚志の良くわからない質問に難しい顔をした栞は、少ししてから答えた。 「神饌かな? 神様へのお供え物。文脈がどうの言うなら、それがしっくり来るけど、……なんで?」 「んにゃ別に。……意味不明だなあそれでも」  かりかりとこめかみを掻いて、尚志は納得が行っていないような目で自分の前に置かれたキャンバスを睨みつけている。意味不明は栞にとっても同じだったが、それ以上その話題が続くことはなかった。 「あーっ、だっりぃ。体痛ぇなあもう」  静かになった美術室に、突如尚志の本当にだるそうな声が響いた。

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