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第21話 ちろり庵

 湊は部活に出てこなかった。  もう出ないつもりらしい。土曜にデートした時に、うっすらそんな話をした。引退の時期だし、単に受験勉強がないから顔を出しては絵を描いていただけなのだろうが、彼のいない部室はなんだか物足りなかった。それでも、湊本人がもう来ないというのなら止めることは出来ない。  心の距離が、縮まったとは思えない。  結局昨日は雅宗と色々あって、連絡することは出来なかった。起きた時に行方不明だったスマートフォンはベッドの下で見つかったが、湊からの着信もメールもまるでなかった。なんらかのアクションを起こせば良かったのだろうが、正直それどころではなかった、というのが尚志の現実だ。  尚志に嫌というほど恥ずかしいことをしてくれた雅宗は、仕事終わりによく立ち寄るという店の名前を教え、気が向いたら寄ってな、と尚志を誘った。  昨日のことを思い出すだけで体がうずうずしてくる。あまりに疲れて、あちこちだるくて仕方ない。  尚志は攻めるのが大好きだが、別物として捉えれば昨日のあれはあれで、全否定するほどのことではなかった。 (意外と……優しいのな)  自分は湊に、あれほどの「優しさ」を以って接しただろうか、とふと思う。 「……勉強ね」  優しくなる為の、勉強。確かそう言われた。  なんとなくだが、雅宗の言いたかったことがわかった気もする。尚志のやり方は非常に自分本位だ。雅宗はそれをわからせる為なのか、あるいは本来そういう抱き方をする男なのか、乱暴とは程遠い方法で尚志の体を開いた。初めてだというのに結構気持ち良かったと思う。ただ、普段使わないような筋肉を使ったので、終わったあとにぎしぎしと来た。 (俺ともあろう者が、もっと鍛えねえと)  色々不覚だった。  あんな一面を見せられようとは。思い起こすと妙な汗が出てくる。 「………………くそう」  表現のし難い複雑な感情に捕らわれて、尚志はぺたん、と自分の右手を額に押し付けた。  教えられた「ちろり(あん)」という店は、偶然なのか必然なのか、尚志の通学路に面していた。変な名前、とか思ってなんとなく頭の隅に残っていたが、生憎入ったことはなかった。和風の造りでわざと古臭く見せている建物は、実際にはそれほど昔からそこにあったわけではない。元々あった貸し店舗を改装してちろり庵が出来たのは数年前だ。  部活が終わってすっかり日も暮れた中、その前を通り過ぎようとして、駐車場に雅宗のグリーンの愛車が停まっているのが視界に入った。  どうしようかと一瞬迷ったが、 「まあいいか」  呟いて、分厚い一枚板の扉を中に押しやる。ちりりんという涼しげな音が小さくして、不思議な香りが鼻腔をくすぐった。  それほど広くない店内の片隅に、何かを食べているらしい雅宗の姿を見つける。仕事帰りでスーツを着ている背中は、まだ尚志に気づいていない。  壁は木目が見え、調度品も全て木製だった。店を照らす照明は蛍光灯の明るさではなく、所々に柔らかい光を発するランプや蝋燭が設置されている。お香がシンプルな香炉から細く白い煙を上げている。そこが香りの発生源らしかった。見れば入り口の傍の棚に、ちまちまとした雑貨と共に何種類ものお香が陳列してある。売り物らしい。 (薄暗……)  雅宗の他にいる客は二人だけで、仕切られた厨房に五十がらみの甚兵衛を着た男が一人何かを作っていた。尚志が入ってきたのを見て、渋い声で「いらっしゃい」と呟きにも似た声を発した。  雅宗がちらりとこちらを見、尚志を認識して手招きした。 「今帰り? 遅いんだね」 「やってる絵が終わりそうだったんで」  学校を閉めるぎりぎりまで居残ってしまった。栞などは随分前に引き上げていったし、他の部員も尚志を残して帰ってしまった。キャンバスに向かっていると時間を忘れる癖がある。仕上げてしまいたかったのに、見回りの先生が来たので追い出された。今日はバイクではなく徒歩だった上に、こんなところに寄り道していては更に帰宅が遅くなる。 「なんか食う? 奢るよ」 「いーよ別に」 「ここの飯旨いよ? 夕飯は大体ここで食ってる。……昨日は随分いい思いさせて貰ったし、ご馳走するけど」  にこりと笑んで、メニューを差し出す。尚志はつい雅宗から目を逸らし、差し出されるままにメニューを受け取った。 「……んじゃあ、お言葉に甘えて」 「どんどん甘えてくれていいよ」  尚志の前で皿の料理に箸をつける雅宗は、だいぶ機嫌が良いと見えた。いい思い、と聞いて少し恥ずかしくなった。それを隠すようにメニューを睨んで、奥の男に注文した。渋い声が返ってきた。 「雅宗は自分ちで飯食わねえの?」 「ん? ……まあ、俺はまっすぐ帰ることってあんまりないからさ。適当に食うから夕飯は用意しなくていいって、言ってある」 「ふうん」  経済的じゃないなと思いながら、変わった味のする冷たいお茶を口に含む。  耳に優しい音楽が小さく流れていた。  落ち着く場所だ。居心地が良い。香りのせいもあるのかもしれない。雅宗はいつも一人でここにいるのだろうか。 「――尚志」  店の中をぼんやり見つめていたら、不意に呼ばれた。  昨日寝たあの時から、呼び捨てされるようになった。呼びたいように呼べば良いからあえて指摘はしていないが、どういう心境の変化だろうか。 「悦かったろ?」  意味ありげな表情だった。  昨日のことを言われているのは明白だった。何を突然面と向かって聞いているのだろうか。 「……自信満々だな」 「てゆーか、昨日の君のリアクション見てれば一目瞭然だし」 「じゃあ聞くな」  不貞腐れた顔で雅宗からまた視線を逸らし、テーブルの端に置いてあった本に意味もなく目をやった。英会話のテキストだ。 「やっぱ、どっか行くんだ?」 「行くかもねえ。いつ行っても困らないように勉強してんだけどね」  曖昧な返事だ。勉強、という単語に微妙に反応した尚志に、箸を止めた雅宗がにやにやと口元を歪めた。 「君ももう少し勉強しとく? このあとどっか行こうか」 「……人が話逸らしてんのによ」 「悦かったくせにぃ」  否定出来なかった。  けれど二日続けてあんなことを許す気にもならなかったし、栞に描かせてやると言ってしまった。昨日知らぬ間にキスマークを目立つところに残されていたので、さすがに体育の時は若干人目を避け、いつもより素早く着替えた。見られたところでそう問題はない気もするが、見られないに越したことはない。 「もうしたくないかな?」 「そういうわけじゃ……ねえけど」 「俺としては、あれはまだ全然序盤なんだけどね。尚志にはもっと色々教えてあげないとなって目論んでる」 「自分がしたいだけじゃないのか」 「そうとも言う」  悪びれもせずに笑って再び雅宗が食べ始めていたら、やがて甚兵衛姿の男が尚志の注文した料理を持ってきてくれた。 「お待ちどう」  低いが人の良さそうな声が、静かに言った。 「岸くんが誰かといるのは珍しいね」 「たまには顧客開拓してあげようかと思いましてね。庵主(あんしゅ)さんの生活が潤うように」 「そりゃあどうも。まあ、ごゆっくり」  男は楽しそうに言って、すぐに背中を見せた。 (……ふうん)  珍しいことなのか。  盆に置かれた朱色の塗り箸を持ちながら、食べている雅宗をじっと見る。  友達が多そうなイメージだったのに、やはりここでは一人でいることが普通らしい。家にも帰らず、どうしてここで夕食を採るのだろうか。 「どうかしたか?」 「いや別に……うまいなこれ」 「だろお。さっきの庵主さんが一人でやってんだ。ちろり庵だから、店主じゃなくて庵主。ま、ぶっちゃけ坊主崩れなんだけど」 「へえ……坊主」  その単語に、ふと昨日言われたことを思い出した。 「あのさ……神饌をなんとかって、どういう意味だったんだ?」  尚志の質問に、雅宗は一度瞬きしてから返事をした。 「お社の坊ちゃんのことだよ。君がオイタした、あの子」 「オヤシロ……って?」  意味が良くわからなくて、尚志はほんの少し眉を寄せた。  どうして湊をそう呼ぶのかがわからなかった。  雅宗は、湊を知っていたのだろうか?  それとも何か人違いをしているのだろうか。 「お社っていうのは、神社のことだよ。神饌ていうのは……まあ俺も、ちょっと穿った言い方したかもしれないけどね」  雅宗は困ったように呟いて、空になった食器を盆ごと端に寄せた。

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