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第23話 ただの先輩と後輩

 虚しくコールする音。5回目のコールで、電話を切った。それ以上鳴らしたところで更に虚しくなるだけだし、電話が鳴ったら必ず出なければいけない理由などない。歩道を足早に進みながらスマートフォンをポケットにしまい、湊はバイト先へと向かった。  空が高い。ここのところ急に空気が変わってきている。秋になり、冬になって、やがて卒業したらここを離れる。数ヶ月の、残された時間。  せめてその残された間だけでも、ぎすぎすした関係でありたくはなかった。もうほんの少し自分を曝け出して、抱きたいというならその体を開いてやって、心も開けたら良かった。そう思うのに、なかなか出来ない。  無理な話だったのだろうか、とも思う。  尚志と恋愛関係になるなど無理だ。もしそうなったとしてもずっと続けることなんて出来ない。自分はここからいなくなる。男を選ぶのも、家のことを考えたらあまりに馬鹿げていた。それでも、残り少ない高校生活が終わるその時までは、好きなように出来たら良いのかもしれないと、心のどこかで願っていた。  昨日のことは自分なりに良くない態度だったと思って、電話したのに。 (出ないし……)  誰にも聞こえないような声で呟いて、レジカウンターの奥にあるSTAFF ONLYと書かれたドアをくぐると、もうそのことについて考えるのはやめた。  やめた、というよりも、考えるのが億劫になった。それでももやもやとしたものが体のどこかから滲んできてしまうのを止められず、ぶるんと頭を振る。少し伸びてきた前髪が視界に入り、そろそろ切りに行かないと、と関係のないことに意識をやった。  開店前に返却ポストに返されたDVDの山を、同じシフトの店員と一緒に黙々と整理しながら、気を抜くと尚志のことを考えている自分に気づいた。  こんなことではいけない。  何がしたいのだ、自分は。  尚志とどうしたいのか。今後どうありたいのか。まるでわからない。ずるずると戻れないような深いところへ落ちてゆくのは怖い。けれども立ち止まり、有耶無耶のままにしておくのも気持ちが悪い。 (単なる先輩に戻ろうか)  尚志がそれを許してくれるかどうかは、湊には判断出来ない。しかしこちらからもう二度と連絡したり、気がある素振りを見せたりしなければ、多分彼はそれ以上踏み込んだりはしない気がする。そういう男だ。抗えないほどの強い力で自分の不可解な感情を引っ張ってくれたなら、もしかしたら楽になれる。  そうして欲しいのか。否か。  ……わからない。  晴れない心のまま休日は終わりを告げ、再び日常が戻る。決められた時間割で動く毎日。淡々と授業に出て、友達とくだらないことを話して過ぎる時間。進学しない湊にとっては、実に平和な毎日だ。  その平和を、尚志が壊した。  陽が落ちたあと、玉砂利の上にちらちらと積もった木の葉を綺麗にして、しばらく拝殿の裏にしゃがみ込んでいた。夜の空気は好きだった。昼間の喧騒が静寂に変わり、輝いていた空は闇へ沈む。その中にいるのが、落ち着く。  なのに、今目の前にいる男は、湊の心をかき乱す。 「柴田」  もう一人いた男は、背を向けて鳥居の向こうへと消えてしまった。この前駅で尚志といた男。自分とはまるでタイプの違う人間。何故尚志とここへやってきたのか。  あの時も、妙に親しげだった。つい声をかけるのを躊躇ってしばらく動向を窺っていたら、会話の流れがおかしな方向に進んで行った。 (エッチする……とかなんとか)  ついかっとなって、感情の赴くままに尚志に蹴りを入れてしまったのだが、すぐに後悔する羽目になった。普段湊はあんな乱暴な真似に出るような人間ではない。 (柴田はわりと簡単に、ああいうこと出来る奴なんだろうか)  自分にとっては結構大きな壁があったものなのに、あんなふうに軽いノリで誰とでも寝ることが出来てしまう男なのだろうか、と思ったらどうにも苛立ちを隠せなかった。価値観の違い、と言ったら単純な話だ。けれどそんな簡単な言葉で表せるものではない。  湊の姿を凝視して、じっと突っ立っている後輩の傍に歩み寄る。  見慣れない姿にびっくりしているのか、そこにいたことにびっくりしているのか、目の前に立ち止まっても尚志はしばらく黙り込んでいた。  年下なのに、湊よりも目線がずっと高い。  上目遣いにその戸惑ったような顔を見つめ、湊はほんの少し眉を歪める。 「何してんの?」  どこかに険が含まれた問いかけに、我に返った尚志はやっと口を開いた。 「そのカッコ、可愛い」 「――え?」  じっと湊を見つめ、ふと伸ばされる腕。その腕から逃げるように一歩身を引いてしまったのを、次の瞬間自己嫌悪した。  伸ばされた腕は湊に触れることはなく、あっけなく下ろされた。気まずそうに視線が逸らされ、あらぬ方を見る。再び落ちる沈黙。尚志は困ったように眉間の辺りを掻いて、しばらくしてから重たいため息をついた。 「あのさ、先輩」 「……うん?」 「俺がヤなら、はっきり、そう言ってくれると嬉しい。……ただの部活の後輩に、戻るから」  それは思いの外穏やかな声だった。  伸ばした手を拒絶されたことに対し、尚志としては内心微妙に傷ついていた。けれどそれを表に出したりはせず、極力優しく聞こえるようにそう言った。  自分を受け入れようとしない人間に対し、無遠慮に攻め込んでゆくことは出来ない。そういうのは空気で読めるし、相手が男である以上、これまでだってぶち当たったことのある壁だ。一度くらい抱けたからとは言え、相手のリアクションがこうも悪いと、引き際を考える。  自分の気持ちや欲望だけを相手にごり押し出来ない。本当に心の底から、何が何でも湊を欲しいと思っているのなら、多少の無理をしてでもこちらを向かせようとしただろうか。それが出来ないのは、やはり気持ちが足りないからなのか。聞かれてもよくわからない。  それでも湊が拒絶するなら、手は伸ばさない。 (絵だけ描いてりゃ良かった)  手なんか出さなければ良かった。  こんな反応を返されるなら、仲良くなる必要などなかった。そう思う。尚志との関係が変わってから、湊はどうも扱いづらくなってしまった。良い方向に変化してくれたなら、もっともっと好きになれたかもしれないのに。  湊といても、心から楽しいと思えない。 (むしろ……雅宗といた方が楽しい)  こんなぎこちない間柄は、疲れる。  そういうのを克服して、もっと深い関係を築くことが出来る人間もいるのだろう。けれど今の尚志にそれは出来そうもなかった。  閉じられた心。  瞳の奥にある迷い。尚志を受け入れようとしていない気配。 (傷つけたのか)  怖いのか、と、目を逸らしたまま思った。  何分か考えるように黙り込んでいた湊は、少し俯いて、 「そうだね」  それだけを言って、静かに尚志の前からいなくなった。  なんだかとても虚しくなった。

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