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第25話 鳴らないスマホ

 地道に徒歩で自宅まで戻ってきて、乱雑に靴を脱ぎ散らかし家に入る。父は遠くで絵の商談が入って家を空けていたが、母がリビングでお茶を飲みながら尚志を待っていた。  そのまま二階の自室に入ってしまうのも気がひけて、ちらりと顔を出す。湯飲みを置いた母は、末っ子を困ったように見つめ、「遅くなるなら早めに連絡よこすようにね」と呟いた。 「うぃす……」 「電話したのに、ひーくん出ないんだもの。お母さん心配しちゃったじゃないの。図体だけ育っても、まだまだ子供なんだから」 「――鳴ってねえけど?」  尚志は訝しい顔をして、ポケットに突っ込んだスマートフォンを手に取る。先ほど電話をかけた時着信履歴などなかったし、音が聞こえなかったとしてもバイブにしてあるから多分気づく。  だけどそういえば…… (なんかここんとこ着信がない)  尚志はうーんと首をかしげ、試しに自宅の電話から自分の番号にかけてみる。  普通に鳴った。 「電波悪かったのかな」 「――ひーくんこの前目覚ましも壊したでしょう。なんかしたんじゃないの?」 「いやでも……今はかかったし。たまたまじゃん」  もう一度かけてみると、今度は繋がらなかった。動作が不安定だ。 「……んー」 「部屋散らかしてるから、なんかしちゃったんじゃないの。とりあえず、繋がらない電話なんて持たせても意味ないから、貸してちょうだい。お母さん明日お店に持ってって見て貰うから」 「……はあ。お手数かけます」  一応電源を切ってから素直にそれを母親の手に落とし、冷蔵庫を開けてコップに麦茶を注ぐ。並々と注がれたそれを一気に飲み干すと、腑に落ちない様子で二階へと上がった。 (はっ……)  しかし階段の途中で、足が止まる。 「もしかして」  知らない間に湊から着信があったり、したのだろうか? もしそうなら、……。  くるりと方向転換して、再度母親の元へ降りてゆく。 「ちょ、それ貸して!」 「……なあに、慌しい子ね」  落ち着きのない息子に苦笑いして、渡したばかりのスマートフォンが尚志に差し出される。電源を入れ直し、足早にリビングを去ると湊のナンバーにコールをした。  何度も鳴る呼び出し音。  相手が出ることがない、冷たい空白。 (もしも……)  かけてくれていたなら。  彼にもこんな空白を味わわせたのだろうか?  コール音が一つ増えるたびに微かに募る苛立ちの中、それでも何度もコールしていたら、やがて相手が出た。 「せ、先輩っ!?」 「…………なに?」  沈黙の後に来た、戸惑いの声。  今更何を電話をかけているんだ、という空気が声だけでも手に取るようにわかる。思わず切りたくなる雰囲気をなんとか無視して、これだけは聞いておかなければと尚志は頑張って言葉を繋いだ。 「あの……俺のスマホ、なんか調子悪いみたいで……先輩、俺にかけたりしなかった?」  切羽詰った尚志の声に、湊はまた沈黙したが、 「かけてないよ」  短く、固い答えが返ってきた。 「……マジで?」 「かけてないよ。用はそれだけ? 僕今ちょっと手が離せないんだ。……切ってもいいかな」 「あ、う……うん。すんません。――あの、」  さっきおしまいにしたばかりなのに、何を言い募ろうとしているのだろう。  拒まれたというのに。  尚志といることを、選ばなかったというのに。 「柴田……じゃあね」 「先ぱ――」  切られた。  ぷつり、という無情な音が耳にこびりつく。一体何を続けようとしていたのか、自分でもわからない。  かけた、と言われたらやり直せたのか。  かけてない、と言われたのに。もしかしたらそれが嘘じゃないのかと思ってしまう。どうしてこんなつまらないものに縋ろうとしているのだろう。 (明らかに拒まれてるじゃねえか)  尚志は電源を無言で落とした。  これ以上は、何をしても無理だ。多分。  どうしたの? と聞いてくる母親に返事をすることが出来ず、スマートフォンをテーブルに静かに置いた。それから二階へ上がり、絵の具の匂いがする自室のドアを開くと、尚志は突然部屋の片づけを始めた。 「俺マジみっともね」  頭を切り替えなければ。  雅宗が貸してくれたCDを小さくかけながら、床に転がっている絵の具や雑誌を元の場所に戻してゆく。知らないうちに部屋にこもる画材の匂いを尚志は嫌いではなかったが、今は空気を入れ替えたくなったので窓を大きく開けた。  冷たい外気が流れ込んできた。  徐々に、頭も冷えてきた。  部屋がすっかり綺麗になった頃には零時近くなっていたが、どうしてか眠くなかった。  がたごとと騒々しい音が隣の部屋から聞こえる。高校生にしては遅く帰ってきた末弟が、先ほどから何やらやっている。尚弥はうるさそうに眉をしかめて、ベランダへ続く窓を開けた。  咥え煙草で外に出て、煌々と明かりの漏れる尚志の部屋をちらりと見る。ベランダで繋がっている部屋は、窓が開いていれば出入りも可能だ。その窓とカーテンを全開にして部屋を掃除している珍しい弟の姿に少しばかり驚いた顔をしながら、左手に持った灰皿にぽんぽんと灰を落とす。 「尚志、うるっせー」  ぺたぺたとベランダを歩いて部屋の外に立った尚弥に気づき、尚志は逆光であまり見えない兄の顔を一瞥した。 「夜中まで掃除してんじゃないよ。迷惑」 「……もう、終わるから。勝手に入ってくんな」 「いいじゃん。誰を連れ込んでるわけじゃなし」  くす、と尚弥は笑みを見せ、ベランダから尚志の部屋に入ってくる。湯上りらしい尚弥は綺麗な髪が湿り気を帯び、妙につやつやとしていた。 「部屋片づけんのはいいことだけどさ。騒がしいんだよ」 「――だから終わったから。座るな」  折角片づけたばかりの雑誌を棚から引っ張り出して勝手にベッドに座り込んで読み始めた尚弥に文句を言って、尚志は掃除機のコードを引っこ抜いた。 「おー、わりとエロいね。高校生がこんなん買っちゃ駄目え」 「ばっ」  尚弥が手にしているのが、男の肌色が多い雑誌であることに気づいてそれを取り上げようとするが、あっさりかわされる。 「この辺、尚志のおかず?」  折り目のあったページを尚志に示して、尚弥はにやにやと指摘した。 「うっせえ」  思わず顔に血が昇って、今度こそそれを取り上げる。尚弥は面白そうに煙草を弄び、「うるさいのはおまえだよ」と切り返した。  人がいろんなことがあってぐつぐつしているところに、なんで尚弥とこんな会話をしているんだと尚志は軽くむかついていたが、相手はそんな弟をまるで気にした素振りもない。がるがる言っている尚志に、尚弥は煙草をもみ消すと、 「尚志ってホント、野郎にしか興味ないのな」  苦笑にも思える笑みを見せた。 「いいだろ! 別に」 「いいけど」 「自分の部屋帰れよ。襲うぞ。俺は気が立ってんだ」 「そんな気さらさらないくせに」  突拍子もない科白に、尚弥はぶは、と噴き出した。  勿論本気ではない。尚弥相手に何を思うはずもない。それを知っているからか、年上の余裕からなのかは知らないが、がっつり衆道まっしぐらな弟のことを、尚弥は変な目で見ない。 (自分が両刀ってのもあるんだろうけどさ)  少しは怯んでくれた方が、今はありがたかった。  一緒にいると、無駄なことを言ってしまいそうだったから。 「――尚志? どうかしたか」  気まずそうに沈黙した弟に、尚弥は首をかしげてその顔を覗き込んだ。 「別になんでもねえよ」 「そう? ならいいけど、なんかへこんでるっぽかったから」 「……わかんの?」 「しょっちゅう顔を見てれば、まあ。なんかヘマやった?」  ほっといてほしいのに。  結構優しい尚弥の顔。  似てるのに尚志とは違う顔。 「んー? どした」 「……なんでも、ねえよ。俺もう寝るから、とっとと自分の部屋戻れよ」  目を逸らした尚志に、まあいいけど、と呟いて、尚弥はぽんとその頭を軽く叩いた。  この心のもやもやを尚弥に吐き出したところで、どうなるものでもない。尚志は深く眉間にしわを寄せ、尚弥が出て行ったベランダの窓を、乱暴に閉めた。

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