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第26話 酷いこと
ちりりん、と入り口の方から聞こえた来客の音に、雅宗は何気なく目をやった。
金曜の夜、いつもと同じようにちろり庵で夕食を摂っていた。来るのは常連客がほとんどで、ランチ以外で座れないほど混雑しているのを見たことはない。
ここに人口過多のざわめきは似合わなかったし、程よい暗さは気持ちが落ち着く。だからここが好きで通っているし、無骨な外見の庵主のことも気に入っていた。
尚志が視界の端に入っていたのは気づいていたが、気づかぬ素振りでこちらへやってくるのを待つ。尚弥の用事で柴田家に行くこともなかったし、尚志がここに来るのも、あの夜以来だった。会ったのが月曜だから、四日振りか。
(この前は、あの後どうなったんだか)
その後の展開が気にはなったものの、自分がいたらことがスムーズに運ばないだろうと思ってあの場は去った。それは気遣いというよりも、面倒な展開に巻き込まれたくなかったからなのだが、あえて黙っておくことにする。
「……雅宗」
無言で舞茸の炊き込みご飯を口に運ぶ雅宗の横に歩いてきた尚志が、なんだか複雑な表情で彼の名を呼んだ。
「どうぞ?」
雅宗は笑顔を作り、自分の前の空いている席を手で示した。尚志が座るのを見計らって、庵主が水とおしぼりを持ってくる。
「この前より帰りが早いな。描いてる絵、仕上がった?」
「うんまあ……それはとっくに。模写だったし。今は違うのやってる」
「ふうん。模写だとなんか違う?」
「終わりの地点がはっきりしてるだろ。自分のだと、ここで終わりって言うラインは、なかなか」
尚志の口調はいつもより重たい。沈んでいる、と言っても良い。おいしくない展開を繰り広げたのだろうかと、雅宗は勝手に想像した。
「なあそれ、旨そうな……ちょっとくれよ」
「頼めばいいじゃないか。ああ、財布の心配してんなら……」
今日も奢ってあげるよ、と言いかけて、遮られる。
「あんま食欲ねんだよ。でも旨そうに見えたから、一口だけ」
置かれたばかりの冷たいグラスを両手で軽く握りながら、尚志は何を思ったか、口をぱかりと開ける。
(雛?)
ついおかしくなって、雅宗の口元が綻ぶ。17の男が、年上とは言え同性の男に対して何を可愛らしいことをやっているのだろう。味の染みた米と具を箸で摘んで、尚志の開かれた口の中に入れてやった。
ぱくん、と閉じられた口を確認してからそっと箸を抜こうとしたが、中から尚志の赤い舌が伸びてきて、箸の先端をぺろりと舐めた。
(――う、ちょっと来た)
腰の辺りにぞくぞくとしたものが走った。雅宗の内心など知らぬように、入れられた舞茸ご飯を咀嚼する尚志は、テーブルに置かれた丼をなんとなく見ている。
「……旨ぁ」
「尚志の分も注文する?」
「今あんま金ねえもん」
「だから奢るって」
雅宗が厨房の方を向いて庵主を呼ぼうと振り向いた時、その手をぎゅっと掴まれた。
その手の感触に、つい注文することを失念する。自分を触っている尚志の顔をじっと見て、なんだろうかと考えたが、ふと一つの回答らしきものを見つける。
(なんか今日は……俺を微妙に誘ってるというか)
そんな気配がした。
この前尚志と寝たのは、結構成り行き任せだった。受身なんてしたことのない尚志にとって、あれは恐らく不本意な出来事だったと雅宗なりに認識している。尤も「どろどろに蕩かしてやる」をコンセプトに攻めたのだから、その策に籠絡されても無理はない気がしたが、それでも少し意外だった。
「どうした、尚志」
「いらねえよ、飯は。マジで食欲ねえの」
「……失恋しちゃった?」
「さあ。どうなんだか」
尚志は雅宗から目を逸らし、掴んでいた手も離した。
はぐらかしているというより、自分でも良くわからないような表情だった。肘を突き、ぼんやりと棚に置かれているお香の煙を眺めている。
「なーんか、空気抜けちゃってる感じだよなあ君。大丈夫か? そんなんで」
雅宗は苦笑いして、何も注文しないのは庵主に悪いからと、コーヒーを二つ注文した。
「ほら。喉くらい潤しとけば? 砂糖とミルクは入れる?」
「……いらね」
「ブラックで大丈夫か? 尚志、眠れなくなるんじゃないのか」
コーヒーはいらない、という意味で言ったらしい尚志は、雅宗に茶化すような軽口を叩かれたので、ついむっとする。子供扱いされるのは心外だったろうか。庵主が出してくれたブラックのコーヒーを、何も添加せずに口をつけている。
「……苦」
ほんのり眉をしかめた尚志は、
「ミルク、貰う」
案外素直に言って、中央の小鉢からミルクを一つ摘んだ。
(いかん……笑いそう)
その様子が妙に可愛らしく感じてしまい、雅宗は唇の端がぴくりと引き攣った。くるくるとスプーンでコーヒーをかき混ぜてもう一度口をつけた尚志が、すぐに砂糖に手を伸ばしたので、今度はうっかり笑みが漏れた。
「何笑ってんだよ」
「いや、別に」
「最初から素直に両方入れとけとか思ったんだろ」
若干拗ねたように呟いた尚志は、むきになってスプーンをぐるぐる動かしている。
「まあ、君の好きにしなよ」
「……好きにして、失敗した」
ふと、尚志のスプーンが止まった。
食事を終え、コーヒーも空になってしまったので、そろそろ出るけど一緒に帰る? と尚志に言ったら、「ああ」という短い返事が返ってきた。
来た時と同じように、ちりりんと音を立てて店を出る。一人でいる時は、この後どこかに暇つぶしに行ったりするのが雅宗の常だった。二十時を少し回った頃だが、自宅に戻るにはまだ早い。
(それともこの子とどうにかなろうか?)
車のドアを開けながら、雅宗は考える。尚志はなんだか手持ち無沙汰に夜道に突っ立っている。
「そういや尚志って徒歩? チャリ通とかじゃないんだ」
「バイク通……だけど今金ねえから、ガソリン節約で歩いてんの」
「いいねえバイク。俺高校ん時はそんなん許してくんなかったけど。――どうする、うちまで送ろうか?」
「…………あのさ」
言い淀んだ尚志は、考えるように宙を仰いだが、言葉を繋ぐことはせずに助手席のドアを開けた。
(俺とどっか行く?)
そう言おうかと迷ったが、雅宗も何も言わず運転席に乗り込んだ。とりあえず尚志が無言なので、彼の自宅方面へ向かってウインカーを出し、駐車場から車道へ出た。
「……あ、そうだ。CD、返さねえと」
走り出した車の中で、尚志がごそごそと学生鞄の中を漁っている。先日貸した数枚のCDが顔を覗かせた。ちらっと見た限り、あまり教科書が入っていない鞄だ。教室の机に置きっぱなしになっているのだろうか。
「ああ、適当にその辺置いといてくれるか? ……ところで尚志。さっき、何か言いかけてなかった?」
「……ええと、なんつーか」
尚志らしくもなく、歯切れが悪い。仕方ない子だな、と思ってこちらから言ってやることにした。
「気持ちいいことして欲しい?」
「ちげーよ」
「あれ、違ったのか……残念」
さっき感じた気配は雅宗の勘違いだったのだろうか。しかし尚志は少し考えてから、すぐに付け加える。
「気持ちいいこと、じゃなくて……あのさ」
「おう、何かな。言ってごらん」
「勘違いしないで欲しいんだけど、……俺に、その、……酷いことしてくんねえ?」
躊躇いながらもはっきり言った尚志の意外な言葉に、雅宗は目が点になる。
「――は?」
思わず走行中ということも忘れ、雅宗はがっつり尚志の方を向いた。
「前! 前見ろよ! 危ねえじゃん!」
「あああ、ごめんごめん。びっくりした」
すぐに前を向き直り安全運転を心がけるも、尚志の求めているものが良くわからなくて、戸惑いの表情を隠せない。いきなり酷いことしろなんて言われても、雅宗としては、困る。
「尚志ってそういう趣味だったんだ? いやあ……俺は、あんまりそういうの自信ないんですけど。ご期待に沿えるかどうか」
「勘違いすんなって言ったろ! そうじゃなくて……なんつうのほらあ。……あとで説明するよ。一回さ、うちに送ってもらっていい? 帰り遅いとかーちゃんうるせえから」
「君んちで酷いことするのか? しょうくんに色々聞こえちゃうかもしれないけど」
酷いこと、というのが具体的にどういうものなのかよくわからなかったが、何をしたいのだろう。
(酷いこと……激しくしろとか?)
もしかして、と雅宗は思い至る。
尚志がお社の坊ちゃんにしたみたいに、めちゃくちゃして欲しいのだろうか。どうやらうまく行かなかった雰囲気だし、自己嫌悪しているのかもしれない。
(ペナルティか?)
何を考えているのやら。しかしそれに便乗しない手はなかった。尚志がそうして欲しいというのなら、実行してやっても良い。
(どうされたらいいとか嫌とか、わかるだろうし)
考えていたら、尚志が気まずそうに返事をした。
「…………いや、出来れば違うとこで」
自分がされる分には、羞恥心があるらしい。
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