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第27話 盤上の駒
一度送ってもらって帰宅してから、再び自宅を出ることにした。尚志は普段頻繁に夜遊びに出かけるタイプではなかったが、以前は良くこうやって抜け出しては、恋人とも呼べない男に会っていた。
あの関係が終わってしまってからは、あまりそういうのもなくなっていた。外に出れば何かあるかもしれないが、絵を描いている時間も欲しかった。
父が画商で、小さい頃から質の良い作品を間近で見ていた。絵を描くのが好きなのは、父がそう望んだからではなく自分の意思なのだが、少なからず父の影響もあるのだろう。
考えるより手が動く。無言で一人の世界へ入ってゆくのが好きだ。そこにモデルがいても、周りに同じく描いている人間がいても、尚志は一人だ。
深いところまで集中すると、人の声も音楽も聞こえてこなくなる。
聞こえるのは、自分の握る筆とキャンバスが擦れる音だけだ。
(また雅宗描きたいんだけど)
この前は中断させられてしまった。一戦交えたあと、再び鉛筆を握ろうとしたら何故か二回戦にもつれ込んだ。なんなのだ、一体。
描かれるのが嫌なのだろうか。
(わけわかんね)
この後のことを考え、家に戻って速攻空いていた風呂でシャワーを使う。
少し前までこんな妙な緊張感を味わうことなんてなかった。初めてそうされてからもうじき一週間になる。ふと湯気に曇った鏡を指で撫で、自分の体に落とされた雅宗の痕跡を探してみたが、もう消えていた。
(吉野に描かせてやるって言っちまったけど、また延期になるかなこりゃ)
ほんの少し、心臓がどきどきしてきた。いつもの立場が逆転するだけで、こうも状況が変わる。尤も逆転とは言ってみても、雅宗に対してはそんなことした覚えはまるっきりない。
以前雅宗は、「どっちでも」なんて言っていたが、あまり受身に回る彼を想像することは出来なかった。
(ほんとはタチ一本なんじゃねえの)
つまらないことを考えながら、長く待たせるのも可哀想だったので、さっさと風呂から上がって私服に着替えた。中身の軽い二つ折りの財布をポケットに突っ込んで、親に気づかれないよう静かに家を出る。
道沿いの街灯を六つほど数えたところにある、尚志の父が経営する画廊の駐車場に停められた雅宗の車は、エンジンがかかったまま尚志が来るのを待っている。
(酷いこと……とか言っちまった)
変な意味に取られていないだろうか、と自分で提案したにも関わらず尚志には若干の不安があった。酷いにも限度があって、尚志の想定する限度と雅宗の限度が食い違っていたら嫌だ、などと思ったものの、そもそも自分が言い出したことだった。それに想定内の「酷いこと」をされたところで、果たして己にダメージがあるかどうか、考えればすぐにわかることだ。
(いんだよ、少しくらい想定外のことされても)
本当は、雅宗にそうされるべきではない。
尚志がそうしたように、湊にそのまんまを返されたら良かったのだ。一応あの後学校で、彼の教室に顔を覗かせた。相変わらず固い表情の湊に対し、尚志は先ほど雅宗に提案したのと同じことを、ほぼ同じ言葉で告げた。
(ドン引きされたなあ、あれは)
馬鹿じゃないのかと呆れた様子で返された。人目のある学校でそんな突っ込んだ話が出来るわけもなく、それで終わりになってしまったのだが、続行したとしてもあまり尚志の望むリアクションが返ってくるとも思えない。だから、それで終わりにした。
自分たちはただの先輩と後輩に戻ったのだ。
本当の意味で戻れたとは思っていない。一度変化した関係が、そうあっさりと戻るわけがない。それでも形だけは、そのようにしなければならなかった。そう望まれたから、そうするしかない。
「遅かったな、尚志」
助手席のドアを開けた尚志に、ゲームか何かをしていた雅宗はそれを閉じて顔をこちらに向けた。
「風呂入ってた。……こんな暗いのに、目ぇ悪くなんぜ? 何してたん」
「チェス」
「……チェスぅ?」
定番のスマホゲームでもやっていたのかと思いきや、何やらルールもわからないゲームが雅宗の口から出てきたので、尚志は眉を寄せた。
「結構面白いと思うけどなあ、俺は。うちにチェス盤あるけど、教えてやろうか?」
「雅宗んち行くのか?」
てっきりホテルにでも連行されるのかと思ったが、意外な言葉だった。きょとんとした尚志に、雅宗はにこりと笑顔を作る。
「ラブホ行っちゃうとさあ、俺も給料日前だしちょっとフトコロ事情が芳しくない。その金でメシ何回か食えるしなあ。ま、大丈夫だよ、静かにすれば。しょうくんに筒抜けになるよりは、ずっといいだろ?」
そうだろうか。
しかし金がないのは尚志も同じだった。
「金ないんだったら、人に奢るとか言うなよ」
「可愛い子に奢るのは当然でしょ」
さらっと可愛いなどと言われ、尚志はぐらんと眩暈がする。どういう目をしているのだろうか。雅宗は尚志のリアクションなどお構いなしに、煙草に火を点けて車を発進させた。
「なあ尚志、どうされたい?」
前を見ながら、いやらしい響きもなく問われた。
「どう……とでも」
「殊勝な言葉だけど、後悔するかもしれないよ? 俺の考える酷いことが、どんなんだか君は予想出来る?」
冷静な口調に、どきんとする。何を想定しているのだろう。しかし家に送る前に、そういうのは自信がないとかなんとか言っていたではないか。単に脅かしているだけかもしれない。
「そう簡単にさあ、自分を粗末に扱うような言葉を吐くのは良くない。相手が悪けりゃ何されるかわかったもんじゃない」
「っせえな……雅宗は悪い相手なのかよ?」
紫煙を逃がす為に窓を開けながら、雅宗は「さあ」と呟いた。
「それはこれから、教えてあげよう」
煙草を咥える横顔は、何を考えているのかまるでわからなかった。
雅宗はチャイムを押すこともなく合鍵で玄関を開けて、いるであろう家族にも一切声を掛けず、尚志を静まり返った家の中に導いた。
一応人の家なので、一度上がってからくるりと玄関に向き直り、履いてきたスニーカーをきちんと揃えた。玄関には雅宗の革靴の他に、女物の靴とサンダルが一足ずつ置かれている。他に男物はない。
単に帰宅していないか靴箱に仕舞ってあるだけかもしれないが、雅宗の父親らしき人物の靴はない。しかしそれについてあまり深く考えることはせず、「おいで」と手招きした雅宗にくっついて部屋に通される。
「風呂入ってきたんだっけ」
夜はだいぶ冷えるようになってきたからか、ふわふわの羽根布団の掛かったベッドに座らされる。雅宗はネクタイを解きながら、クローゼットを開けている。
「俺もざっと入ってくるから、ここで大人しく待ってるんだよ。夜だから静かにな」
「別に騒いだりしねえよ」
すぐ戻るからと言ってバスタオルを握り部屋を出てゆく雅宗の後姿を見送りながら、尚志は慣れない空間に一人取り残された。
静かだ。
この家には、他に誰もいないかのようだ。
(あ)
目を彷徨わせていたら、以前自分が雅宗に渡したであろう絵が、裏を向いて壁に立てかけられているのに気づいた。なんとなく立ち上がり、それを表に返す。
「結構上手く描けた」
そう呟いたが、それをじっと見ているうちにどこか不安になってくる。
それはこれからされることへの不安ではない。自分が描いた物に対し、不安定な揺らぎを感じたのだ。
「――なんで」
自分がこの手で描いた物なのに。
こんなふうに、心がざわめいたのだろう。
(俺はこんなん描いたのか)
これは雅宗だったのだろうか。
普段話している彼とは、どこか違う何かが絵の中に存在している。赤の他人が描いた物ならともかく、どうして今更ながらに己の作品にこんな不可解な思いを抱かねばならないのだ。わけがわからない。
雅宗がこれを裏向きに置いたのが、なんとなく共感出来る。
じっと見ていると、怖い。
何が怖いのか自分でもわからない。描いている時は理解していたはずなのに、手を離れたら途端にわからなくなる。こんな気分を味わうことはほとんどないのに。
ぱたん、と再び絵を元通り裏返した。それから机の上に置かれたチェス盤に目を移す。
「ふうん……綺麗だな」
すりガラス製のクイーンを手に取り、じっと眺める。それがクイーンなのかキングなのかなんて尚志には判別出来なかったが、この駒たちは美しく、興味をそそった。クイーンを市松模様のような盤面に静かに置いて、違う駒もじっくり見た。
「いいなあこれ……どんなルールなんだ?」
整然と並べられた配列にどのような意味があるのか皆目見当がつかなくて睨んでいたら、やがて雅宗がさっぱりした顔で戻ってきた。
「お、チェスやる?」
「いや、ルールわかんねえし……チェスやりに来たわけじゃ」
「ルール自体は簡単だけどね」
雅宗は笑って、チェス盤の前に立っている尚志を後ろから抱き締めると、ルークを持っていた手を上から軽く握り、上下に移動する。
「これはルーク。十字方向にしか動かないけど、自分の駒に邪魔されなきゃどこまでも行ける。……これで、ポーンゲット」
背中に雅宗の鼓動が感じられた。
濡れた髪が尚志のうなじをくすぐった。
「ポーンてこれ? なんか一杯あるけど」
「全部で八個。基本的には一歩ずつ前にしか進めないけど、結構重要な駒だよ。上手く進めれば、クイーンに化けることも出来るし。クイーンは強いよ」
言いながら、雅宗の手が尚志のジーンズのジッパーに掛かった。左手では駒をいじりながら、右手で下着の上から尚志を探っている。
「んでこれがビショップ。頭に斜めの切れ込みがあるだろ。これは斜め方向にしか進めないんだ」
ちゅ、と口にピアスを含まれ、背筋がぞくりと反応した。腰の辺りに雅宗が当たっている。チェスの説明が素通りして頭に入ってゆかない。
「……尚志のこれはビショップかな? それともキング?」
下着をずり下ろされて、先端を指の腹でそっと撫でられた。焦らしているのだろうか。雅宗の酷いことというのは、こういう類の物か。指の先で軽く抉るようにされて、思わず腰が引いた。
「可愛いな、尚志は」
まただ。
また可愛いって言われた。
けれどあえて文句は言わずに、尚志はされるがままに突っ立っていた。
どうしてこんなに静かなのだろう。
どうでも良いことが頭を掠めて、すぐに忘れた。
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