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第29話 痩せた月

 耳を掠める風の音。  夜に吹く冷たい空気。飲み込まれそうに黒い空。細く痩せた月の明かりは乏しくて、なんだか寂しい気持ちにさせる。  眠れない。  しかし眠れないのは、今に始まったことではない。いつからそうなのか、と問われたら、明確には答えられなかった。  賽銭箱の前に座り込んで、やってくる女の姿を無言で待つ。  ああ、知ってる。  この女を僕は知っている。  生まれる前から知っていたはず。 (そんなわけない)  ……そんなわけがないのに。あるはずのない記憶。とりとめのない曖昧な海馬。頭蓋から流れ出し溶けてゆく疑問。  がんっ がん、がっ  鳥居を抜けて静かに歩いてきた響歌は秋の夜だというのに薄着で、見ているこちらが寒くなりそうだった。ざくりざくりと踏みしめる玉砂利の音が、すぐ近くまでやってくる。 「ここにいた」  にっこり笑んだ色の白い女は、僕の隣に当然のように腰を下ろした。  左手に犬のぬいぐるみ。右手には僕の左手。ぎゅっと掴んだ響歌の手は夜の気温よりも冷たく、ひんやりとした。けれど振りほどくことはせず、掴まれた左手をぼんやりと放置したまま空を見上げる。 「寒くない? そんな恰好で」 「寒く……ないよ?」  響歌は薄く笑んだまま、僕の横顔を見つめている。 「どうしてここに来る?」  ずっと疑問に思っていることを、僕は初めて口にした。 「どうして?」  響歌は同じように繰り返し、また笑う。 (壁を打ちつける凶悪な音)  どこから聞こえるのかわからない。耳にこだまする、痛々しい何か。それがさっきから僕を苛んでいる。微かに苛立ちを覚えるリズム。けれど響歌には聞こえてはいないようだった。あるいは、聞こえていても気にならないのか。……それとも、僕の耳が、おかしいのか。 「こうやって、会うことに意味が?」  僕は苛立ちを隠しながら、響歌の顔を見ずに聞いた。この女の目を見て話すのが好きではなかった。何か恐ろしいことを思い出しそうで、直視出来ない。顔を向けない僕に文句も言わず、相変わらず左手を握ったまま響歌はくすくすと含み笑いを漏らす。  何が楽しいのか、僕にはまるでわからない。 「響歌に会うのが怖い?」 「そういう、わけじゃ」 「怖いんだ」 (がつん、)  返事をしなかった僕に何を思ったか、響歌は不意に立ち上がった。冷たい手が離れたことに、安堵とも不安ともわからない何かがよぎる。響歌が触れていた部分を軽く握る。頼りなく宙を掴んだ、僕の左手。  立ち上がった響歌は僕の目の前で止まり、ずっと持っていた犬のぬいぐるみをぴこぴこ動かした。どこかで見た光景のような気がして、急にどくん、と心臓が痙攣する。  心が締め付けられた。――ような、気がした。  今のは、なんだったのだろうか。  心なんて、  ……どこにもないのに。  響歌の背後に広がる闇を見つめながら、僕は何も言えずに黙り込む。  しんとした空気。響歌の足音が境内に植えられたクスノキの方へと遠ざかってゆく。僕はつられて立ち上がり、風にざわめいている枝葉に歩み寄った。 「ここに登った?」 「……うん、昔ね」 「どこまで登った?」 「二つ上の、幹まで」 「ふぅん……。あんまり高くは、登れなかったね。でもね……行こうと思えば……どこまでも登って行けるの。知ってた?」  響歌は振り向いて、クスノキの堅い表面をざらりと触った。 「今は登ろうとは思わないよ」 「あの月にも届くのよ」 「無理だよ、どう考えても」  到底叶いそうもないことを口にする響歌に、僕は思わず苦笑で返した。けれど響歌は至極真面目に、もう一度囁くように言った。 「どこへも行けないのは、自分の殻に篭ってるから」  くす、  微笑が風に揺れて、響歌の柔らかいスカートが翻った。 「響歌に出会うのは、本当は心のどこかでそれを望んでいるから」  ――言葉が詰まって何も言えなくなって、瞼を、閉じた。  どれくらいの時間目を瞑っていただろう。数秒かもしれないし、数分だったかもしれない。時間の流れる速度が認識出来ない。何かを激しく打ちつける音だけが、相変わらず耳の奥でしている。  再び目を開けた時には、天へ伸びるクスノキがそびえ立っているだけだった。響歌の姿は、あっさりと消えていた。  手を離さずに、  ずっと同じところにいられたら良かった。 (嘘だ)  たまに浮かぶ、響歌の凶暴な視線。  こちらまで取り込んでしまいそうな歪み。僕を侵食してゆく狂気。触れたらいけない場所。けれど離してもいけない……そう思うのは何故か。  どこへも行けない。  響歌の殻に捕まってしまったとでも言うのか。出口なんてあるとは思えない硬い厚い殻。そこから外に出られたら、もしかしたら違う世界があるのかもしれない。  安らかな眠りを、手に入れることも出来るのかもしれない。  ……自分が何を考えているのかわからなくなってきて、僕はただ呆然と立ち尽くした。  意味がわからない。そんな響歌を僕は知らない。彼女の作り上げた殻の中にいるとも思えない。  夜明けはまだやってこない。  闇が濃すぎて何も見えない。  何もかもが遠すぎて辿り着けない。  手を伸ばしても、  ……響歌の後ろ姿にすら、届かない。  無性に寂しさがこみ上げてきた。

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