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第30話 反芻

 仕事が休みの土曜の昼間から、雅宗は一人でちろり庵にいた。  ぼうっと何本目かの煙草を咥え、嵌め殺しの窓際で冷めたコーヒーを手元に置きながら肘を突いている。  昼食の空いた皿はとっくに片づけられ、昼時を過ぎて店内は閑散としている。閑散、というより雅宗以外に客はいない。ここに入ってから何人かが来店し、そして去っていった。まるで陳列された商品であるかのように、ずっと一人で定位置に座っている。  アンビエント系の音楽が静かに流れ、ゆるやかに細い香が燃え尽きてゆく。独特の香りに包まれ、時間が経つのをつい忘れる。  長く伸びた煙草の灰がぽとりとコーヒーカップの中に落下した。気づかずにそれを口にしようとして、唐突に庵主に声を掛けられる。 「岸くん、駄目駄目」 「――ん?」  はっとして止まり、手に持ったそれを見て己の失態に初めて気づく。雅宗は困ったようにカップを置いて、庵主に笑みを作った。 「良く見てますねえ」 「なんか違うの出そうか?」 「……じゃあ、深蒸茶淹れて貰っていいです?」  すっかり短くなったキャメルを揉み消し、テーブルに放置していた英会話のテキストを開いたが、すぐに閉じた。なんとなく持ってきただけで、今は見る気にはならない。  意外と可愛い金魚の手ぬぐいを坊主頭にぎゅっと巻いて、奥でのんびりと茶を淹れている男の挙動をぼんやりと見る。多分父親と同じくらいの年齢の庵主は、雅宗とは何故か波長が合う。黙り込んでここに居座っていても居心地は悪くならないし、常連客だからというのもあるのだろうが向こうも雅宗を歓迎してくれる。  たまに、つまらない話をする。 「お待ちどう」  湯気の上がる茶碗と共に、頼んでいない練り切りの乗った皿が置かれる。紅葉をデザインした和菓子に目を向け、 「たまにはお相手します?」  雅宗は意味ありげに呟いた。庵主は「そうだなあ」と返事をしながら一旦くるりと後ろを向いて、棚に鎮座していたチェス盤を持ち上げた。お相手、というのはつまりゲームの相手だ。  チェスは庵主に教わった。  将棋の方が似合いそうな風体だが、客足が途絶え、この男が暇そうに一人で駒を並べていたのを以前に見た。それを面白そうだと思って、教えて貰ったのだ。  庵主は特別レベルが高いというわけではない。面白い変わり駒を見つけてきて飾っていたのを、暇にかまけてルールを覚えた、という程度だろう。常連客相手に低レベルな戦いを繰り広げ、時間を潰す。  のんびりしていて、いいと思う。  あくせくしていない。落ち着く。 「岸くん英語の勉強、はかどってる?」 「えー……まあ……そこそこの進捗具合で」 「行く気あるのかい、ハワイだっけ」  チェス盤を雅宗のいるテーブルの上に置き、差し向かいに庵主が腰を下ろした。 「まあ、俺の仕事なんて、パソコンがあってネットに繋がってりゃどこでだって出来るし、行く時は行くでしょうね。うちのオーナー、遊び相手が欲しいみたいで。一人でサーフィンしててもつまんないって。何言ってんだか」 「岸くんがいなくなっちまったら、数少ない対戦相手が一人減るなあ」  しみじみと言って、短く刈り込んだ顎ひげをざらざら触っている。無精ひげではない、意図された形のそれは庵主に良く似合っている。  ことん、と雅宗の白いポーンが盤上を二歩進む。あまり考えずに黒のポーンが進んで雅宗の斜めにやってくる。黒を取ることは出来るが取ったりはせずに、また別のポーンをことことと動かした。 「いなくなったら寂しがる相手とかいるんじゃないのかい」 「どうですかねえ」 「この前の子とか」 「さあ、寂しがりますかねえ」  軽く笑って、ちょっと考える。  昨日の夜、酷いことをしろと言った尚志を抱いて、一眠りしてから家まで送り届けた。朝まで寝ていたそうに見えたが、あまり長居をさせるのは良くなかった。  響歌だ。  尚志は気にした様子も見せなかったが、響歌の部屋からいつもの音が聞こえてきた。途中でどうにもたまらなくなって中断し、響歌を宥めてやった。 (尚志は、何も言わなかった)  気づいているだろうに。  人の家庭事情に首を突っ込まないでくれるのはありがたいが、それでも気を揉んで仕方ない。嫌な汗が出る感じ。響歌はまたいつ騒ぎ出すかわからない。だから少しだけ眠らせてから、夜中に起こしてそっと家を出た。 (やっぱラブホ連れ込むんだった)  そうしたら朝までのんびり過ごして、起きたらもう一回くらい攻めてやれたのに。 (……尚志は結構、)  可愛い。  ネコの男を攻めるより、尚志みたいなタイプを開拓する方がずっと面白い。無茶なことをする尚志をたしなめる意味も勿論あったが(尚志としては雅宗に口出しされるようなことではないだろうが)、半分以上は自分の欲求だ。 (怖いから自分の手の中に収めたんじゃないのか)  ふと本心が顔を覗かせる。  尚志に描かれるのが怖かったから、 (だけどそんなのは、どうでも)  今となってはどうでも良かった。  色々されて我慢している尚志は、とても可愛らしく雅宗の目に映った。  途中記憶が飛んだのは、夢中になりすぎたからだろうか。一部、覚えていない。何か違うことを考えていた気がする。  ――冷たく頬を撫でる風が、凪いだ。  唇の感触に我に返った。  葉のざわめきだと思っていたのはベッドの軋み。  揺れていたのは自分の体。ブラインドの隙間から見える細い月、薄明るい部屋。  雅宗はその瞬間、思考が完全に停止した。 「……尚志」  軋みが止まっていた。  熱い体の内側が脈打つ感触に、どこか違う場所にいた自分の心が唐突に引き戻される。そうだ、尚志を、……抱いていたのに。目の前に起こっている現実から乖離して、夢ともつかぬ幻想の中に沈んでいたのは誰か。一体先ほどまでの自分は誰だったのか。 (お社の……)  神社にいた。  小さい頃登ったクスノキの前で、立ち尽くしていた。仲原湊の姿をして。あの時自分は雅宗ではなかった。  成り代わりたかったのか、と思ったら虚しさがこみ上げた。尚志好みの可愛らしい男でありたかったのか。  だがそれは無理だ。持って生まれた姿形を変えることは出来ない。尚志の好みであろうとも思っていない。雅宗は雅宗でしかない。  他の何かになりたいと思うのは、まるで意味のないことだ。 (壁を打ちつける、音)  雅宗はゆっくりと響歌の部屋のある方を見つめた。  白い壁の向こうにいる、響歌。さっきから頭の隅でしていた、痛々しい音はおそらく響歌がまたヒステリーを起こしているのだろう。尚志は気にならないのだろうか。それどころではないのかもしれない。 (止めなきゃ)  バスローブをひっかけて、響歌を止めなければと部屋を出る。尚志に突っ込まれたらどう説明したら良いのだろう。出来れば不要なことは言いたくない。  響歌のことは誰にも言わない。尚弥にも話さない。  それは多大なる苦痛を伴う。響歌が「普通」ではないのは雅宗が良く知っている。他人にべらべらと吹聴すべきことでは、ない。  心臓から送られる血が冷えてゆくような、嫌な錯覚を覚えた。 「仕事順調?」  昨夜のことを反芻していたら、庵主のナイトにポーンを取られた。 「代わり映えもせず。目ぇ疲れるんすよね。淡々と画面見てると」 「そういう時はアントシアニンをだね。……おう、やったな」 「ちゃんと俺の動き見てないから」  くすりと笑い、先ほどポーンを奪っていった庵主のナイトを掠め取る。もっと熟考しないと、大事な駒をあっさり取られる。だが所詮これは他愛ないコミュニケーションだ。お互いそれほど熱くはならない。  また尚志のことを考える。  寝不足もあるのだろうが、今朝からずっとぼんやりとしている。気かつくとなんだか尚志のことばかり考えている自分がいる。甘い練り切りを少しだけ口に運びながら、雅宗は呟いた。 「庵主さんだったら、可愛いと思ってる子に酷いことしてって言われたら、どうします?」  唐突な雅宗の問いに、一瞬庵主の手が止まった。しかしすぐに何事もなかったかのようにビショップを動かし、雅宗の駒を奪う。 「――言われたのかい」 「ええまあ」 「酷いことしたのかい」 「そりゃもう、そんなこと言われた日には自慢のムスコが大暴れですよ」 「ふうん。拝んでみたいもんだね。……で、そのあと相手は?」 「気が済んだみたいですよ」  無感動に答えた雅宗を眺めながら庵主は面白そうに笑い、茶をすすった。 「相手の気が済んだんなら、いいんじゃないのかい」  庵主ならどうするかの答えはなかった。  雅宗自身、答えを待っていたわけではなかったのかもしれない。ただなんとなく、口から滑り出した疑問だった。尚志の気まぐれに便乗した自分の見苦しい姿を、誰かに告げたかっただけなのかも。  舌の上に残る練り切りの甘さに茶が欲しくなり、雅宗は少しばかり冷めてきたそれを一気にあおった。

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