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第31話 錆

 ぱちり  ぱち ちり  どこかから音がする。  暗い空に向かって伸びる炎。乾燥し、木のはぜる音。  空気に混じった錆の匂い。 (誰……)  天井を焦がし、服に移る火の粉に反応することもせず、床に倒れ込んでいる男。顔は横になってよく見えない。その後頭部から血を流し、昏倒しているように見えた。誰かに殴られたのだろうか。傍には脚に血のついた椅子が無造作に転がっていた。 (火を、消さなきゃ)  そう思ったが、伸ばした自分の手は透けて見えた。倒れている男の傍に行って抱き起こそうとしても、触れることが出来ない。  こんなに燃えているのに、 (……熱く、ない)  さっきは熱いと感じていたのに、気づいてしまえば熱さすら感じない。感じていた錆臭さも、どこかへ掻き消えている。自分自身が本当にはここに存在しないのだろうか。  見ているだけで、何も出来ない。 (これはなに)  夢を見ているのか、と思った。  けれど眠りに就いた覚えはなかった。  天井が崩れる、と思った瞬間、無意識に自分の頭の上に手をかざした。けれど何も起こらなかった。男の着ている服がじわじわと燃えている。壁紙がめくれ上がり、中の骨組みが見えた。  次第に大きくなる炎が、自分を通過して他の物を飲み込んでゆく。 (これはなに)  誰かが泣いている。  誰かが笑っている。 (なに) 「大丈夫?」  ばっと顔を上げると、響歌が覗き込んでいた。冷や汗の浮かんだ顔色の悪い湊をじっと覗き込み、白い手がふと頭に伸びた。 「こんばんは、お社の坊ちゃん」  にこりと微笑んだ響歌に、はっと顔を上げる。  いつ、来たのだろうか。全然気づかなかった。しかし驚いた顔をすぐに取り繕い、平静を装う。 「その呼び方は……止めてもらえると」 「じゃあ、」  響歌は意味ありげに言葉を切り、少ししてから続けた。 「ヨリマシ」  思いがけない単語に、湊は沈黙した。  いきなり何を言うのか。ヨリマシ……憑巫(よりまし)のことを言っているのか。その体に何かを(神を)降ろして、その口で神託を告げる者。  確かにここは神の社で、自分はここの人間だ。けれど、そんな芸当は多分出来ない。少なくともこれまでそういう経験はない。跡を継ぐ必要もないと言われた。ごく一般的な普通の男だ。 「普通そういう言葉は、なかなか出てこないと思うんですが」 「気に入らなかった? 雅宗は、坊ちゃんのこと神饌(しんせん)て言ってたけど、これも嫌?」 (……雅宗?)  どこかで聞いたことがある気がするのに、それがどこで聞いた名前なのかわからない。記憶を辿るが、一向に思い出せない。  誰の名前だったろう。  この頃、頻繁に響歌に出会う。いつやって来たのかわからないくらい自然に、自分の前に立っている。  変な風に緊張するのはどうしてだろう。  彼女を怖いと感じている。いかにも華奢な感じの、風が吹いたら飛んでいってしまいそうな頼りなさなのに、何が怖いというのか。  存在が不透明だからか。 「僕には湊っていう名前がある。坊ちゃんでも、憑巫でも、ましてや神饌なんかじゃない」 「じゃあ、湊って呼ぶ。それでいい?」 「……ええ」  湊は俯き加減に呟いて、自分の足元を見た。  暗い地面に淡い影が落ちている。涼しい空気。熱くはない。何も燃えてはいない。誰も倒れていない。さっきのは一体なんだったのか。 「何か、見えた?」  響歌は面白そうに笑い、湊の前でくるりとターンした。スカートが翻り、白い腿がちらりと浮かぶ。無邪気そうに見えるこの女のことを、湊は何も知らない。何をしにここに来るのか、何か目的があるのか。 (何かって……)  さっき見ていた不可解な光景を言っているのだろうか。しかしそれに対して何か言って良いものか判断がつきかねて、湊は違うことを尋ねる。 「雅宗って、誰?」 「会ったことあるよ。覚えてない?」 「さあ」 「駅で、会った。響歌もあの時、一緒にいた。湊はすごく怒って……」  駅、と聞いて数秒考える。駅で怒った時、と言えば一つしか思い当たる節がない。尚志と待ち合わせをした、あの日。  ――あの時一緒にいた、背の高い男? (確か、ここでも会った)  あの時もまた、尚志と一緒にいた。すぐにいなくなってしまったが、何故二人でここに来たのだろう。尚志は多分ここを知らなかったはずだ。家からも離れている。偶然ふらりと立ち寄ったわけではないだろう。参拝するにしたって時間が遅い。  あれが響歌の言う「雅宗」か。 (そうだ……あの時柴田が、雅宗って呼んでた)  それを頭の隅で覚えていたのかもしれない。  彼が尚志を誘ったのだろうか? 彼は湊をここの人間だと認識していたということか。それでわざわざ、連れてきたのか。 (何の為に)  意味がわからない。 (柴田と妙に仲が良さそうで……)  あの時は、単純に頭に来た。  喋っている会話の内容にも。自分と待ち合わせをしているというのに、他の男と胡乱なやりとりをしていた尚志に憤慨し、普段そんな態度に出たりしないのに暴挙に出た。  あの時、響歌はいただろうか?  いたかもしれない。ただ他の人間に目が行かなかっただけなのだろう。あの人ごみの中で、誰が誰の連れかなんて、一目で把握出来ない。ましてや湊はあの時とても視界が狭くなっていた。  もっと素直になれたら良いのに。 「電話のことは、ごめんね。あれは響歌のせいかも知れない」 「――電話?」 「繋がらなかったでしょう」  響歌の言っている意味がわからなかった。しかし電話と言われて思い出す。  尚志はあの後色々折れた態度を見せてきたのに、スルーした。電話したのにしてないと言ったり、……同じことをして良いと言われたのに一蹴した。 (まあ、それは……その気になれないっていうのもあるけど)  尚志がしたのと同じことを、返せるとは思えなかった。  そもそもそのことに対して、怒ったりしているわけでもなかった。確かに初心者相手に多少乱暴だった気もするが、比べる対象がないのでなんとも言えない。  もう一度体を重ねるのが怖かったのは本当だ。けれど少しずつ、尚志と仲良くなれたら良かったと思っていたのも、事実だった。だがそれは過去形だ。もう無理だ。自分から断ち切った。そうすることを選んだ。 (ここからいなくなるのに)  卒業するまでの短い間だけでも、一緒にいられたら良かった。  素直になれたら、それは案外簡単なことだったろうに、と思う。思うが、もう仕方ない。  考えていたら、響歌が目の前で可愛らしくポーズを取り、止まった。 「この服、あの日雅宗に買ってもらったんだよ。可愛いでしょ」 「……似合って、ますけど。で、その雅宗さんていうのはなんなんですか」 「双子」 「そうですか……」  微妙に顔を歪め、響歌から逃げるように視線を逸らす。  似ていない。彼と同じ年齢にも見えない。どうして尚志と仲の良さそうだった男の双子の片割れが、自分に会いに来るのか。 「どうして、ここへ?」 「湊に会いに」 「――だから、どうして」 「雅宗が気にしてたから、響歌も気にした」  よくわからないことを言って、響歌は拝殿の脇にしゃがみ込んでいる湊の隣に同じようにしゃがんだ。  ……錆の、匂い。  誰かが死んでいた。……死んでいたのか? 動かなかった。少なくとも意識があるようには見えなかった。  先ほどの光景が鮮明に甦り、湊は思わず瞼を伏せた。  一体何を見たのか。あれは何だったのか。手のひらが汗ばんでくる。 「湊は、ずっとここにいるの?」 「春になったら、遠くに行きます」 「そう……」  目を開けると、柔らかい笑みを浮かべた響歌がどこか寂しそうにこちらを見つめているのに気づいた。 「響歌のパパも、遠くにいるよ。ずっと傍にいるって言ったのに、嘘をついた。もう響歌の傍にはいないの」 「……それは」  なんと答えたら良いのだろう。沈黙していたら、響歌はずっと持っていたぬいぐるみをぎゅうっと両手で抱き締めてから、立ち上がった。 「もう帰る。ママに見つかったら叱られる。おやすみ、お社の坊ちゃん」  また妙な呼び方をされたが、あえて指摘することはせずに湊も「おやすみなさい」と呟いた。  一人になった途端、夜風がやけに冷たく感じられた。  部屋に戻ろう。  考えても答えの出ないことを考えるのは非常に無駄だ。  尚志のことも、もう、忘れる。  自分たちは何もなかった。  たちの悪い夢を見たのだ。 (……夢、)  夢を、見るの。  とても厭な夢。  パパが響歌を怖い目で見て、どうしてこんなふうに生まれてきたんだって、どうしてこんな弱い子産んだんだってママを怒るの。  パパはもういない。響歌を置いてどこかに行ってしまったの。  だけどママと雅宗がいるから寂しくない。雅宗がずっといてくれたら安心するのに。ずっとおなかの中で一緒だったのに、この頃は一緒にいてくれなくなった。  前はそんなことなかったのに。  どうして大きくなるの。  響歌を置いてどこへ行ってしまうの。  雅宗はパパと同じなの?  ……パパ。  大好きな腕。もう響歌の近くにはない手。  パパの後ろから椅子を振り上げたら、びっくりしたように何かを叫んで、  ……何も言わなくなった。  これは悪い夢。  消えてなくなればいい。  目を瞑れば、何も見えない。  悪い夢も掻き消える。  何もかも。 「……悪い、夢」  自分の呟いた声に、湊はびくりと目を見開いた。  誰もいない暗闇で、何か違う物を見ていた自分に気がついた。  ざわりとした何かが背中を撫でた気がした。思わず後ろを振り向いたが、やはり誰もいなかった。 (どうしたんだ僕は。疲れてるのか)  自分自身がわからなくなり、その不可解さに唇を噛み締めた。

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