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第32話 聞こえない声

 尚志を見つけたのは単なる偶然だった。  雅宗は普段移動手段として車を使うことがほとんどだったし、この日はたまたま響歌の服を買いに出かけるのに、電車を使っただけのことだ。 「追いかければ?」  くだらない立ち話をしていたら、いつの間にか傍にいた人物にしたたか蹴りを入れられてしまった可哀想な尚志をそう促し、雅宗は駅に取り残された。  ぱり、とうなじの辺りをひと掻きする。 「……あーあ」  追いかけるように進言する自分も、そのまま追いかけていってしまう尚志もなんだかしらける。尚志が雅宗の元へ残ったところでどうにもならないのだが、微妙に馬鹿らしく思う。 「雅宗……行こ」 「――ああ」  つんとシャツの裾を引いた双子の妹の存在に気づき、雅宗は斜め後ろをちらりと振り向く。生まれた日は一緒なのに随分身長差のある響歌は、背の高い雅宗を愛らしい上目遣いで見上げている。  いつも一緒のぬいぐるみは、今日はいない。 「何もなかったか?」 「平気……ね、さっきのだあれ」  見ていたのか。  さっき電車を降りたあと、響歌は人ごみに気分が悪くなったようで、構内の手洗いに行っていた。あまり家から外に出ることがない。尤も外出しない方が響歌本人の為であり、雅宗の為でもあった。響歌と出かけるのは、疲れる。それでも服を買ってやる約束をしてしまったので珍しく二人で出かけた。  さっきの、というのはどちらのことを言っているのだろう。  尚志を蹴った人物を、雅宗は知っている。あれは、…… (湊くんだっけか、名前)  比較的自宅の近所にある神社。確かあれはそこの一人息子だ。  子供の頃、神社の境内で遊んだ。響歌も一緒に行ったことがある。その時に、まだ本当に小さかった仲原湊をよく見かけたのだ。目立つ子だから、覚えている。 「お社の坊ちゃんだよ。響歌も知ってるだろ」 「あんなに大きかった?」 (尚志のこと聞かれたのか……まずった)  思ったことは口に出さず、小さく舌打ちしたが、響歌は「ふうん」と呟いて二人の去っていった方向をぼんやり眺めている。 「大きくなっても可愛いのね」 「ん? ……ああそうだね、可愛いよね坊ちゃんは」  尚志のことではないのか。  雅宗からしてみれば尚志は可愛いが、響歌の目から見たらどうだろう。あんなに大きい、というのは多分、自分の記憶の中のサイズと違っていたからなのだろう、と雅宗は考え直した。 (アレは神饌なのに)  尚志の相手があの子だとは思わなかった。  壁越しの気配だけでは、それを誰だと認識するのは難しい。予想していない人物なら尚更だ。  尚志は何の躊躇いもなく手を出したのか、と思ったら複雑な思いがした。 (……何言ってんだ俺は)  ふと湧いて出た単語に、雅宗は疑問を抱く。  どうしてそのような単語が出てきたのか、まるで不明だった。何を以って湊をそのような言葉で括ったのだろう。  過去、そのように思う出来事があっただろうか?  しかし子供の頃の記憶など曖昧すぎて、雲を掴もうとするのに似ている。  覚えているのは、クスノキの堅い表面、玉砂利を踏みしめる感触、拝殿の裏に生えた湿った苔、静けさと空気のざわめき、……そんな断片的なイメージ。 (久しぶりに行ってみたいな……あそこ)  行ってもどうせ代わり映えのしない場所なのだろうが。  無言でいたら、響歌が裾を握り締めたまま歩き出した。それに引かれるようにして雅宗も足を踏み出す。片方の手には響歌に買ってやった服が数着。結構散財してしまったが、たまには仕方ない。約束したのだから。 (そもそもなんで服買うなんて話になったんだったか)  雅宗は宙を見つめながら、ことの経緯を思い出そうとするのだが、今一つはっきり思い出せない。しかし既に目的は果たされているわけで、経緯など思い出したとしても何が変わるわけではなかった。 「雅宗ぇ、なんであんなこと言ったの」 「――ん、何が」 「追いかければ、って。あんなこと言わなきゃ良かったのに」 「いつから聞いてたんだ」  雅宗はちょっと情けない顔をして、かくんと首を落とした。響歌も湊と同じように、会話が終わるまで待っていたのだろうか。そんな気遣いはいらないのだが、響歌をほったらかして尚志と話していた自分が悪い。 「ねーなんで?」 「なんでだろうね……俺のせいで駄目になるのが嫌だったのかも」 「何が?」  澄んだ瞳で疑問をぶつけられ、雅宗は困る。  こんな話をしたとして、響歌に理解出来るだろうか? それに、雅宗自身自分が何をしたいのか、よくわかっていなかった。  強く欲しているわけではない。尚志でなければならない理由などない。向こうが雅宗の心に入り込もうとしなければ、友人の弟だし適当にスルーした方がいい。体の関係など持たない方が、あとあと面倒がない。  けれど心に入り込んだのだ、尚志は。  本人は気づいていないのだろうけど。 (俺の、)  ……深いところまで犯された気分だった。  気づかれていない方が良い。尚志はただ、絵を描いただけに過ぎないのだから。そして描き上げた物は既に尚志の手を離れ、自分の元にある。あの絵を尚志が見ることは、きっともうない。  誰にも見られたくない。 「雅宗聞いてる?」 「聞いてる。だけどその話はやめよう。もう帰ろうな。母さん心配するしさ」 「そう?」 「心配するだろ」 「いいけど」  気のない返事をする響歌は、あまり興味もなさそうに見えた。立ち止まってしまった響歌の手を軽く引き、雅宗は再び歩き始める。後ろからついてくる響歌は無言で、たまに振り返るとあぶなっかしそうに階段を降りている。気をつけてやらないと踏み外すかもしれない。響歌が隣に降りてくるまで歩を休めた。 「雅宗、」 「ん……?」 「この前パパに会ったよ」 「……ふうん、なんだって?」  突然何を言うのかと不審に思い、雅宗はほんの少し眉間にしわを寄せた。  自分の父に、あまり良い心象を抱いてはいない。だがそれは仕方のないことだ。  自分たちを置いて出て行ってしまった父。何故そんな話題を出すのかわからない。響歌は父のことをどう認識しているのだろう。ただ長い留守をしているだけだと思っている可能性もあった。普段父を話題に上らせるのは避けていたし、話題にするようなことも特にないはずだった。 「パパは■主さ■……」  響歌が何かを言った。  けれど雅宗にはそれが聞こえなかった。  雑踏に掻き消されたのか、あるいは声が小さすぎたのか。   聞き返すのも面倒で、雅宗は適当に「そう」と相槌を打った。その対応に響歌は首を傾けたが、何故か少し悲しそうな顔をして、 「ごめんね」  そう、呟いた。  意味がまるでわからなかった。しかしそれに対しても詳しく突っ込んだりはせず、雅宗は曖昧に笑った。  早く帰らなければ。  車で出かければ良かったと後悔した。人ごみは好きではない。雑音が多すぎる。聞くべき声も隠れてしまう。  聞きたくない声も。  響歌はさっき、なんと言ったのだろう?

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