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第33話 現実に立ち返る
体が灼ける、嫌な臭い。
(雅宗、)
響歌が泣いている。
何故泣くのだ。もう痛くない。もう悲しくない。誰も響歌を責めたりしない。傷つけたりしない。
目を瞑れば何も見えない。床に倒れている動かない父も、眼窩を舐めるような炎も、このままじっとしていればすべてが飲み込まれて消えてしまう。
(雅宗、……)
泣いている響歌と対照的に、あの時自分は笑っていた。
耳にこだまする、何かを打ちつける音。鼓膜を脅かし、心を揺らす。眩暈がする。きな臭い空気。張り裂けそうに火照る皮膚。
泣きじゃくる口元に手を伸ばし、嗚咽を閉じ込めた。その小さな手を無理矢理引いて、天井を焦がす勢いの炎の中から二人で逃げ出した。
父を置き去りに。
あの時彼は生きていた。微かに呼吸するのをこの目で見ていたのだから。
サイレンと、窓の割れる音。
人のざわめき。
(雅宗、ごめんね)
響歌の、悲しそうな顔。
響歌はあの時、なんと言ったのだろうか。
謝罪の意味を知ったらいけない。
あれは悪い夢なのだ。
悪い、夢……
「――くどい」
薄闇の中で唐突に発せられた言葉に、ディスプレイを睨みながらまるで関係のないことを考えていた雅宗は、現実に立ち返った。
ハワイから帰国して、ホテルで仕事の続きをしていたが、尚志の眠る顔を見ていたらつい昔のことを思い出してしまっていた。
(うわぁ……俺ぐだぐだ)
くだらないことをループしていた。
気分を切り替えるようにディスプレイから目を外し、煙草を一本取り出す。火を点けながら声がした方を見ていたら、いきなり尚志ががばりと上体を起こした。寝起きなんだか寝ぼけているんだかわからない、幾分目つきの良くない顔でぼおっとしている。
「随分とはっきりした寝言だな、おい。くどいって何だよ……」
午前3時を少し回っている。尚志に睡眠薬を投与してから二時間ほど経過しているが、まだ目覚めるには早いだろうと経験上考えた。
本当は酒が入っているのにあんなものを飲ませるのはあまり良くないのを知っている。一体何の夢を見たのだろう。
いい加減そろそろ眠った方が良いだろうかと、ノートパソコンの電源を落としていたら、尚志の体はすぐにゆらゆらと揺れ出して再びベッドに沈んだ。せっかく被った掛け布団がめくれ上がり、シャツの上からでも綺麗な大胸筋が見て取れる。雅宗が言ったとおりそれは寝言だったようだ。
「二年と……半分くらいか?」
尚志に何も言わずに日本を出てしまってからの年月をふと振り返り、雅宗は苦々しく唇を歪めた。
17の秋に抱いてから、尚弥にも誰にもばれないような関係を続けた。
実のところばれたって一向にかまわなかったのだが、尚志は違ったように見えたから。尚弥の前で呼び捨てにしなかったのは、そういう配慮があったからだ。放置したという罪悪感から来る遠慮も、多少あったかもしれない。
今更会いたいなんて思っていない可能性だってある。
会いたいと思ったのは自分だけなのかも。そういう気後れもあった。それを飲み込んで笑顔で隠し、キスで隠す。
思い出したい、体温。
甘えて欲しい。
甘えさせて欲しい。
他に何も考えたくない。
……それでも置いていってしまった。
ため息混じりに紫煙を吐き出す。
年度が切り替わる時に、たまに上からやんわりと言われていた「気分転換」という名の転勤で、ここからいなくなった。精神的に問題があったことに、気づかれていたのかも知れない。別にそこでなければ出来ない仕事ではない。本当に単なる気分転換の場所なのだ。ネガティブなことなんて考えないで済むような太陽の照りつける島。仕事なんてどこだって出来る。
尚志に別れの言葉も告げずに、切り捨てるように置いていった。
(だけど切り捨てたいわけじゃない)
切り捨てたかったとすれば、響歌に捕らわれている自分をだ。
尚志は雅宗のいない間、少しは思い出したりしてくれたことがあったろうか。雅宗と同じように、感じたことはなかったろうか。
「少しくらいは寂しがってくれてたら、良かったけど」
尚志の寝顔を見つめながら呟く。
よく眠っている。
一緒になって眠ろうか。
寝返りを打ってベッドから落ちそうになっている尚志に気づいて立ち上がり、その体を戻してやって自分もその隣に入り込んだ。雅宗の手の感触にぴくりと身じろぎしたが、再びその瞼が開いたりはせずに、大人しく眠りを貪っている。
「見ないうちに、いい男に育っちゃって。――お」
呼吸している動きを観察していたら、胸のラインに若干の違和感を覚えて尚志のシャツをめくってみた。片方の乳首にピアスが貫通している。
(でかくなっても、食えと言わんばかりのやらしい体だな……)
いつのまにか自分より大きくなってしまった尚志の体は、鑑賞される為に存在するような、絶妙な筋肉の付き方をしている。芸術的と言っても良い。一切の無駄をこそぎ落とした、綺麗な男の肉体。
(俺以外の野郎にも、ヤらせたのかなあ)
どうなのだろうか、と考えたが、そもそも尚志は受身を好むような男ではなかった。
それでも結局、尚志とは逆の関係はなかった。
尚志好みの小さくて可愛らしい男ではないからなのか、あるいは雅宗に抱かれるのが好きだったからなのかはわからないが、理由などどうでも良かった。お互いが気持ち良ければ。
「何やったらこんなカラダが出来上がるわけ?」
ニップルをちょんと指で弾いたら、尚志の眉間にしわが寄った。
弄り倒したい衝動を抑え、軽い布団を被り雅宗はそのまま目を閉じた。大の男が二人で寝るにはあまり広いとは言えないベッドの中で、自分の隣にある体温を感じる。
目が疲れたので閉じている。しかし眠くはない。こちらへ発つ前もあまり寝ていなかったので飛行機の中でうとうとしたが、浅い眠りが雅宗を包むばかりで、生憎熟睡は出来なかった。
「……る?」
ぼんやり目を瞑っていたら、耳元で尚志の眠そうな声が聞こえた。薄闇の中で目を開けて隣にいる男を傍観していたら、急に腕が伸びてきて、
(う)
抱き寄せられた腕の逞しさに、雅宗はびっくりした。
「――光、……じゃねえ」
眠りながらも感触の違いに気づいたらしい尚志は、唐突に目を開けた。
視線がぶつかる。尚志はしばらく考えるように固まっていたが、伸ばしていた腕をゆるゆると引っ込めた。
「ひかる、って?」
人違いで抱き寄せられたことに対し、若干の嫉妬が湧いてくる。ずっと一人でいるような男でないとは思っていたし、雅宗だって尚志といない間誰とも何もしなかった、というわけではない。けれど、人違いされるのは心外だった。それが寝ぼけていたとしてもだ。
微妙な空気を感じ取ったのか、尚志はまだ眠そうな顔に複雑な色を滲ませて起き上がった。きょろきょろと辺りを見回し、己の現在地を確認しているようだ。
「酔っ払いの君を、俺の泊まってるホテルまで連れてきた」
「……覚えてるよ」
言って尚志は大きなあくびをした。
「そういやおかしなモン飲ませたろ。何よアレ」
横になって立て肘をついている雅宗に、いらぬことを思い出した尚志がむっとした視線を向ける。
「そんなことまで覚えてなくていいのに……」
「アレのせいで頭がぐるんぐるんしてんだよ」
「アルコールと一緒はまずかったな、悪かった。――で、ひかるって? 今付き合ってる子? その子と俺を間違ったんだ」
笑顔を作り、尋問口調で聞いてくる雅宗に尚志は沈黙する。
なんだか冴えない反応だ。そうだよ、とでも返してくれたら良いのにどうしてはっきり言わないのだ。
「……ダチ」
「へえ」
ぷい、と顔を背けた尚志は再びベッドに体を沈め、雅宗に背中を見せた。
「友達を、抱き締めるんだ」
「いいだろ別になんだって」
「ヤリ友なのか?」
「ちっげえよ!」
ぐるんと尚志の顔が向いた。怒っている。雅宗の言い方が気に障ったのだろう。少しくらい離れていても体が成長しても、中身はあまり変わっていない。
(尚志のこういうとこ可愛いな)
「もしかして尚志の片思い? お兄さん相談乗ってやろうか」
「いらね」
「――じゃあ、」
相談になど乗る気は毛頭なかった。
「尚志の上に乗ってもいいか?」
嫉妬を押し隠してにやりと笑んだ雅宗は、ほんの少し戸惑いの表情を浮かべた尚志の転がった体の上に、馬乗りになる。
(なんで戸惑う?)
今更こんなことされるとは思わなかったのだろうか。
良いとも駄目とも言わない尚志の顔に近づいて、まだ酒臭い唇に軽いキスを落とした。
「尚志、まだ寝ぼけてたりする?」
「……覚めてんよ」
「抵抗しないってのは、このままヤっちゃっていいって意思表示か?」
「てゆーか……」
尚志は不貞腐れた顔でぱりぱりとこめかみの辺りを掻いてから、上に乗った雅宗を落っことすように無理矢理寝返りを打った。思わずベッドから落ちそうになるのを、なんとか耐える。
「嫌かあ。やっぱ光くんとやらがいいわけね」
めげずに笑って転げ落ちそうな体勢を立て直した雅宗は、今度は尚志の上に乗ることはせずにその横に同じように寝そべった。
沈黙が落ちる。
「なんで黙り込む?」
「……ねみぃんだよ」
「だったら眠ればいい。寝込みは襲わないから」
尚志はまた少し黙り込んでから、軽いため息をついた。
一体何のため息なのだろう。
「尚志?」
「うるせええ……寝かせろ。頭いてぇ」
再び雅宗の方を向いて恨めしそうに声を絞り出した尚志は、確かにあまり本調子には見えなかった。軽く前髪の降りた額に唇を落としてみたら、特に抵抗もされずにじっと黙り込んでいる。抵抗するのも億劫なほどに酒に飲まれたのだろうか。
「……あのさ」
相手が黙っているのをいいことに、いくつもキスを残していたら、やがて尚志からリアクションがあった。眠そうにうっすら開いている瞳を覗きこむ。
「どうかしたか」
「うん、まあ……ホテル代もったいねえじゃん? 実家帰るのヤならさ……うち来たっていいんだぜ。尚弥の部屋余ってっし」
「それって親切? それとも他意があるのか?」
「――んじゃ、寝るし。もう朝まで、起こさねぇで……」
言いたいことだけ言って質問に答えたりはせず、尚志の瞳が完全に閉じられた。
すぐに狸寝入りではなさそうな、規則的な寝息が聞こえてきた。予想外の誘いに、雅宗は言葉の意図を図れずに困惑したが、まあいいかと呟いた。どんな意図があれ、宿泊代が浮くのは願ったり叶ったりだ。
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