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第35話 後ろ暗いこと
尚志が廊下に出ると、先ほどベランダから出て行ったはずの雅宗が、元・次兄の部屋から出てくるところだった。
「出かけんの?」
「尚志取られちゃって、暇だからさー。俺に構わずごゆっくり。会うの久しぶりなんだろ」
「まあな」
光を残した部屋をちらりと見ながら、尚志はほんの少し気まずそうに呟いた。
光も妙なタイミングでやってきたものだ。来るなら来ると、メールでも電話でも入れてくれたら良かったのに。そうしたら心の準備も出来たというものだ。いきなり尋ねてこられるから、びっくりした。しかも、あのタイミング。後ろ暗いことは出来ないものだ。
(――後ろ暗いって、なんだそりゃ)
後ろ暗いことだったろうか。
少なくとも、おおっぴらにするようなことでもない気がした。
もしかしたら光とはずっと友達のままなのかも、と思うこともある。光は自分を好きだとはなかなか認めないし、もう一人獣医なんかと付き合っている。色々事情があるから黙殺しているが、すべて受け入れて寛容になれるほど尚志も大人ではない。
雅宗が帰国した次の朝、親の了解をあっさりと取ってから彼を自宅へ連れ帰った。元々尚弥の友人であった雅宗の来訪を、母は快く了承してくれたし、父も特に異論を唱えなかった。ずっと日本にいるわけではない、期間の曖昧な滞在。
(いつまで、いられんだろ……)
そこに他意があったかどうかは、尚志自身にもよくわからない。わからないが、眠さと戦いながら自分で漏らした言葉を撤回するのは嫌だったし、……それに、なんとなく、一緒にいたかったから。
彼が一言もなくいなくなった時はわけがわからず憤ったが、なんだかんだ言ってみても、尚志は雅宗といるのが気楽だし、好きだった。
「どこ行くん」
「こっち帰ってきてからまだ庵主さんとこ行ってないし、顔出してみようかと。――あ、そうそう」
意味ありげに言葉を切った雅宗は、にやっと笑ってどこか挙動不審な尚志の目を覗き込む。
「んだよ?」
「君の趣味はほんとわかりやすいよなあ。高校ん時のあの子に、タイプが似てるね、光くん」
「俺は別にそういう理由で選んでるわけじゃ……」
「そうかなあ。……ま、ノックもなしにいきなり入ってこられなくて、助かったな。色々と」
尚志の眉がぴくりと動いた。しかし指摘されたことに何か答えたりはせず、そのまま階段の方へ歩いてゆく。雅宗はその様子を面白そうに眺めながらあとをついてくる。
ストレッチの最中かと問われてそうだと返事をした。けれどそれは嘘だ。慌てて体裁を繕ったが、扉が開くほんの少し前まで、光に目撃されるのは芳しくない展開になっていた。
光に予定よりも長く留守にされて、いつ帰ってくるのかも明確にされず、もしかしてこの留守の間実はもう一人の男と会っていたのではないかという疑惑さえ浮かび、しかしそれを尋ねるのもどうかと悶々としていた。近場にいる雅宗とどうにかなっても仕方ない。
尚志にとってそういうことは、好きな人とするのが一番とは思えども、スポーツ感覚なところがあって貞操観念が薄い。それでも相手がその気でないなら、何もない。そのはずだったのだが。
(……雅宗よりでかいし、ごつくなったのに)
相手がまるでそのことに対して躊躇しなかったのは誤算だった。
尚志を可愛がる対象として見る男は確かにいるが、雅宗はそういうタイプには思えなかった。高校生のあの時は、まだ今より男の体が完成していなかったから、そうされたのかと思ったが……とは言え、標準的な男子高校生よりは逞しかったとも思うのだがそれはさておき、雅宗は特に躊躇いもせずに二、三年のブランクをあっさり崩して尚志を抱いた。拒否するという選択肢もあったのに、拒否しなかった。
台所に向かう尚志に手を振って、雅宗は靴を丁寧に履いて玄関から出ていった。とりあえず気を遣って外してくれたのはありがたいが、どこかにもやっとしたものを残しながらグラスにカルピスを注ぐ。
(まあいいか)
さっき雅宗の唇が触れていた自分の首筋を少し撫で、尚志は再び階段を上っていった。
自分の部屋に入ると、光がキャリーに入れたはずのユイをまた外に出し、抱っこしようと奮闘していた。キャリーの扉は閉められ、そこに逃げ込まれないようになってはいるが、ユイはぴょこぴょこと尚志の部屋を走り回っている。真剣に逃げ回っているというより、飼い主を手玉に取って遊んでいる節がある。
「遊ばれてんなあ」
笑いを含んだ声に、光がなんだか悲しそうな顔をして尚志を見た。
「遊んでるんだよ。遊ばれてるんじゃなくて」
「そうかあ? おらぁ、こっち来い」
ついからかいたくなって、持ってきたグラスを脇に置くと尚志は走り回っているユイを簡単に捕まえた。うさぎとの付き合いの短い尚志があっさり愛すべきユイを抱いてしまうことを、光が悔しがっているのを知っている。案の定不満そうに唇を尖らせて、尚志を軽く睨んでいる。
ユイを右手で抱っこしたまま、むくれている光に近づく。
「ほれ」
ぽふん、と光を抱き寄せて、華奢な腕でユイを保定させてやる。突然自分の腕の中に納まった柔らかいうさぎの感触に、光の顔がふと緩んだ。
(可愛い奴)
ちょっと顔を上げさせて、前置きもなく光の唇を奪う。不意の出来事に光の腕の力が抜けたのをいいことに、ユイはぴこんと床に着地した。白い毛が数本舞った。
「口、開けて」
開けようとしない光の唇をあむあむと甘噛みして、十日ぶりの感触を味わう。舌先でこじ開けるようにして中に侵入すると、雅宗とは違う、煙草の味のしない赤い舌に触れた。
「あめぇな」
甘く感じたのでそのまま言ったが、光はキスされて反射的に閉じていた瞳を開けて、不思議そうにこちらを見た。
「甘い物、食べてないよ」
「んじゃ、光が甘い物なんかな。どれ、もっかい味見させてみ」
「……柴田、ちょっと待、」
待てと言われても待つ気はない。光はベランダの方に視線をちらっとやってなんだか困っている。もしかしたらまた雅宗がふらりと現れるかと気にしているのかもしれない。
しかし雅宗はさっき出かけた。庵主のところへ行くと言っていたから、しばらくは帰ってこないだろう。
「柴田……さっきの人、誰?」
結局なすがままに唇を明け渡した光は、優しく絡んでくる尚志の舌に翻弄され、体をぴくんと動かしながら、小さく呟いた。
「気になったのか? そろそろ俺のこと好きって言うか?」
「それは、関係ないし……」
嫉妬したのかと思ったら、光は冷たいことを言って尚志の体を軽く押して引き剥がした。いつものことだがほんのり眉がハの字になる。
「まあいいけど……素直じゃねえの」
「うるさいなー! さっきの人誰って聞いてんだよ、僕は」
「本人から自己紹介あったろ。岸雅宗って」
「そういうことが聞きたいんじゃなくて……っ」
「嫉妬してんだろ。大丈夫だよ、俺のコイツは光の中が好きーって言ってんよ」
はぐらかすように、わざとふざけて自分の股間の辺りを指差した尚志に、光の視線が止まる。
「こんな真昼間から、僕はしないよ!?」
「そろそろ体が火照ってる頃かなって、気を利かせてんのに」
「ユイ帰ろうか」
はぐらかされているのに気づいているだろうか。光は怒るというよりむしろ呆れたように立ち上がって、さっき尚志が持ってきたカルピスのグラスを掴むと、一気に飲み干してユイをキャリーに戻した。
「待てってえ。おーい、光くん」
「ユイうちに連れて帰んないと。じゃーまたね」
「んじゃ夜。そっち行ってもいいか?」
光は数秒考えるように立ち止まったが、やがて尚志の方を向いて、
「今夜は繭姉に会いに行く予定。だから、来るんならそっちでね」
微妙な科白を吐いて、部屋を出て行った。
「――嫉妬だよなあ? あれって」
もっと素直に対応してくれたら良いのに、と思いながら、尚志もカルピスを口に含んだ。
はぐらかした自分も、悪いのだろうが。
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