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第36話 唐突な話題

 所用を済ませてから一般的な食事時を外して訪れた久しぶりのちろり庵は、最後に訪れた頃とあまり代わり映えのしない趣で、ノートを広げて何か作業をしている二人客がいる程度で閑散としていた。どこかで聴いたことのある優しいピアノのBGM。淡く白煙をくゆらせる香の染み付いた店。  エコロジーを意識しているのか、店内の空調は控えめだ。外から内に入った時に覚えるひやりとした感覚はまるでなく、ともすれば暑いと表現しても良いくらいだったが、不思議と気にならない。  庵主は雅宗が扉を開けて入ってきたのを見つけると、ほんの少しじっと視線をこちらに向けてから、目を細め人の良い笑みを浮かべた。 「随分と焼けて帰ってきたもんだねえ、岸くん」  そう言った庵主も、負けず劣らずこんがりと日焼けしている。頭に巻いた手ぬぐいの白さが際立って、海の家にでも訪れたのかと思うほどだ。 「ご無沙汰してます、庵主さん」 「元気にしてたかい」 「おかげさまで」  以前よく座っていた場所に自然と腰を落ち着けながら、雅宗はアイスコーヒーを注文した。  コーヒーが来るまでの短い時間、こまごまとした売り物の並べられた棚をなんとなく見る。ちんまりと可愛らしい香炉や湯飲みは、確か庵主が自分で作ったものなのだと聞いたことがあった。 「お待ちどう」  注文の品を持ってくる時に庵主がいつも口にするお決まりの言葉に、雅宗は視線を前に戻した。 「庵主さんの手、結構繊細な技持ってんですね」 「近くで見るとがっかりするかもしれないけどねえ」 「いやいやご謙遜を……」  軽い口調で立ち上がり、品物の陳列されている棚まで歩いてゆく。手にいい感じで馴染む湯飲みを持ち上げてじっくりと見ていたが、やがて雅宗は、「や、大したもんでしょ」と感心した。 「岸くんの身近に、もっと手先の器用な子がいるだろう」 「は……?」  誰のことを言われたのか一瞬わからなくて、雅宗はちょっと止まった。それから手にしていた湯飲みを棚に置いて、微妙な顔で再び席に戻る。庵主も何気なく空いている雅宗の前に座ってきた。率先して自分から座ることなどあまりない庵主だが、久しぶりに雅宗の顔を見たからだろうか。それに、暇そうだった。 「柴田くんて言ったねえ、よく一緒にいたあの子」 「ああ、ええ」  どうして尚志の名前を知っているのかと不思議に思う。雅宗は彼を苗字で呼んだことなどなかった。腑に落ちない様子の雅宗を、庵主は面白そうに見ている。 「岸くんいなくなったあと、何回かここに来たよ。教えないで行ってしまったのかい」 「……ああ、」  ここに来たのか。  もしかして自宅にも行ったのだろうか。  帰ってきてからそのことについて尚志と話したりはしなかった。尚弥に尋ねたりはしなかったのだろうか、自分が日本にいないことを。 (聞かないか……)  自分たちの関係は、尚弥には秘密だったのだから。  雅宗のいない間、尚志は何をどのように思っていたのか、聞いてみたかったのが本当のところだ。なのにあえて話題には触れず、尚志からもあまり触れようとはしなかった。意地を張っているのか、どうでも良いのかわからない。  それでも体は開いてくれる。  さっきだって、光がやって来なかったら、色々とするつもりでいた。尚志は、嫌がらない。最初は雅宗よりずっと体格の良くなってしまった自分を抱く気なのかと戸惑った様子を見せていたが、そんなこと雅宗は気にしない。むしろ、あの完璧な男の体を好きにするのは快感ですらある。 (何あのエッチな体……反則だ)  元々タチである尚志は、こっちは苦手なんだよと前置きをしたわりに、変に上達していたものだから雅宗は焦った。 「一体何人くらいに抱かせたんだか言ってみ」  うっかりそんな科白を吐いたが、尚志は顔をしかめて明確な数字を言わなかった。 「そんなん覚えてねえって」 「苦手だって言ったじゃないか、君。それなのに、何この上達っぷり。お兄さんびっくりだよ」 「そういう言い方すんじゃねえよ、恥ずかしくなるだろうがー」  本当に嫌そうに呟いてぷいと視線を外されたが、両脚に割って入って覆い被さるようにキスすると、応えてくれた。  大きくなってしまっても、尚志は可愛い。 「てっきり俺以外ハメてないって期待してたのにさあ……」 「なら聞くけど。雅宗は留守にしてる間、俺以外となんもなかったって言うのかよ」 「――それは、ねえ、尚志」  はは、と白々しく笑った雅宗に、何故か尚志も楽しそうに笑って、ぎゅうっと体を抱き締め返した。体を重ねて、眠くなったら一緒に眠った。  ……眠れた。  常用している睡眠薬は、最近使っていない。  ちゃんと眠れている。  けれどずっとあそこにいるわけにもいかない。自分はただの一時帰国中の居候であり、いずれはお(いとま)しなければならないのだ。  また日本を出る、と言っても尚志は止めたりしないだろう。そもそも最初に無言で置いていったのは他ならぬ自分だし、止めるわけがない。  そんなものだ。  独占欲などないのだ、尚志には。  たまに寝て、キスして、それだけ。居心地の良い関係。縛られていない。お互い自分のしたいようにする。  それが俺である必要はないのだろう、と雅宗は思う。 (……それでも本当は、)  誰にも、触らせたくはなかったのだけれども。  考えていたら、目の前にいる庵主の存在を少しの間忘れた。忘れられた庵主とはと言えば、遠い目をしていた雅宗にあえて話しかけることなく、のんびりとしたものだ。雅宗は煙草に火を点けて会話を再開した。 「尚志はどんなこと言ってました?」 「いやあ、たまにね。ここの席に座ってさ、岸くんが来るかなあって待ってた節があるようだがね。もし行き先聞かれたら教えようかとも思ったんだが、聞いてこなかったから黙ってたよ。言った方が良かったかい」 「――いえ、聞かないなら、別に」 「帰ってきてから会ったかい?」 「ええ、実は今……彼の家に厄介になってまして」 「自分の家には帰らないのかい」  聞かれたくないことを聞かれて、雅宗は思わず庵主から目を逸らしアイスコーヒーのストローをからからとかき回した。庵主もそれを察したのか、それ以上は突っ込んでこない。さりげなく会話の軸をずらしてくれた。 「柴田くんは絵を描くんだね。時間潰しかなんなのか、私のこともスケッチしたりしてたよ。鉛筆画なんだがね、ありゃあ上手いもんだ。あんまり上手く描いてくれたもんだから、ほら、あそこに飾ってあるよ」  指差された方を見ると、確かに鉛筆で描かれた庵主の顔が小さな額に収まって壁に掛けられていた。厨房で作業している味のある坊主がそこにいる。 「庵主さんは……」  聞かなくても良いのに、ふと湧いた疑問を雅宗は口にした。 「尚志に描かれるの、怖くないですか」 「何故? ……じっと見られるからかい」 「俺は怖いんです」 「あの子が怖いのかい。でもよく一緒にいたじゃないか」  確かに、そうなのだが。  怖いのは、見られたくない一面が存在するからだ。庵主にはきっとそんな物は存在しないに違いない。彼のすべてを知っているわけではないが、雅宗は漠然とそう思う。 (響歌は……)  どうしているだろうか、と不意に思い出した。  妹にも、母にもずっと会っていない。連絡すらしていない不義理な息子だ。  自分の家には帰らないのかい、と、再び頭の中で庵主の声がした。それを振り払うようにぶるんと頭を振って、ストローを口に含む。 「そういや岸くんね、聞いてないかい。ほら、女流作家で……高天原未雨(たかまがはら みう)って知ってるかい」 「知ってますよ。なんですか庵主さん、話が急に飛びますね」  女流作家、という呼び方がなんとなく古めかしく感じられて、雅宗は無意識に苦笑いした。いきなりどうしてそんな話になったのかわからない。 「その高天原さんがだね、柴田くんに絵を描かせて絵本を出したんだよ。まだ若いのに、凄いじゃないか」  あまりに意外なことを言われたので、雅宗はぽかんとした。 「……いや……全然聞いてないっすねえ……」  右手に持っていた煙草の灰が、ぽとりと落ちた。

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