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第37話 クスノキ
ちろり庵を出てから、雅宗の足は自宅へ向かっていた。
久しぶりに見る懐かしい街並み。どこかの木に止まって鳴いている蝉の声。じわりじわりと耳を刺激するそれに意識を向けながら、淡々と歩を進めてゆく。
車ならすぐ着くのにな、と考えてから、今愛車はどうなっているのかが気になった。かつて乗っていたグリーンの車は、日本を出る前に手放したのでもう手元にはない。どこかで元気に走っているのだろうか。
(違うの買うにしても、カスタムカーがいいなあ……)
頭の中で候補を挙げてみたが、やはりあの車が好きだな、と思い直す。本当はハワイに持ってゆこうかとも思ったものの、面倒臭くてやめたのだ。いつ日本に戻ってくるとも限らない。
ちろり庵へ行く前に、在籍している会社に寄った。上司と少し話して、そろそろ戻ってくるかと言われた。
気分転換出来た、と判断されたのかもしれない。仕事はどこででも出来るが、確かにこちらにいた方が色々と便利だ。顔を突き合わせて打ち合わせも出来るし、フットワークが軽い。
(さて、どうしたものか)
正式に帰国するとなると、やはりずっと尚志の家に世話になっているわけにもいかない。自宅へ戻るのが筋だ。だから自宅の様子を見ようと、そう思って今炎天下を歩いている。
――ふと、
赤い鳥居が目に入った。
自然と足が止まっていた。
神社の奥からも、蝉の声がこだましている。大きく伸びた樹木の影に遮られ、中は他の場所よりトーンが暗く見えた。
寄る用事はなかったが、何故か雅宗は自宅への帰路を脱線し、立派な鳥居を潜り抜けた。
「あの子、いるのかな」
以前尚志が手をつけた、お社の坊ちゃん。仲原湊。雅宗が駄目にしたつもりはないが、結局尚志は湊とは上手く行かなかったようだ。尚志と話していた時に、二年間は別のところへ行くらしい、と聞いた覚えがある。
もう、二年は過ぎている。戻ってきているかもしれない。
「……いや、会ってどうすんの」
誰に言うでもなく独り言が漏れた。手水で柄杓に水を掬い、手を洗い流す。両手を清めたあと、少しだけ手のひらに溜めたそれに口をつけた。やけに冷えた水は、暑い陽射しには心地好い。
誰かが参っている。何を祈っているのか、やけに熱心に拝殿の前で手を合わせているが、その奥に本当に神がいるのか雅宗は知らない。それでもポケットから小銭を何枚か出して、先客が去るのを待ってから賽銭を投げ入れた。
見えない神に向かってお辞儀をして、手を合わせる。
何を祈ると言うのか。
何を望んでいると言うのか。
わからないままに拝殿から身を引いて、目的もなく境内を散策した。ざりざりと足元をくすぐる玉砂利も、なんだか妙に懐かしい。
小さい頃に登ったクスノキの前で、立ち止まる。逞しい幹は天に向かって伸び、制することなど出来ないだろうと言わんばかりに雅宗を圧倒している。
二つ上の幹までなら、登ったことがある。
木登りなんて大人になってからしたことがなかったが、ふと登りたくなり、周囲を見回した。
幸い誰もこちらを見ていない。登ってはいけないとも書いていないし、少しくらい許されるだろうか。いい大人がこんなことをするのも、客観的に見たら馬鹿らしいのだが。
「よっ」
一番低い幹に手をかけて、ぐっと体重を上に移動する。雅宗は背が高い方だったから、比較的容易に登ることが出来た。子供の頃はもっと苦労したのに。
一つ登ってしまえば開き直れた。二つ目の幹を通過し、もっと上に登る。ふと下を見下ろすと、さすがに高低差がかなりあって腰の辺りが何やらむずむずとした。
「落ちたら大変だあ」
ほんのりと冷や汗が滲む。落ちないように二股になっているところに腰を落ち着けて、高みから境内を見渡す。
空が、少しだけ近い。
(あの月にも届くのよ)
誰かが耳元で囁いた気がした。
どこまでも、登って行けるの。知ってた?
どこへも行けないのは、自分の殻に篭ってるから……雅宗。
枝葉の隙間から見える空に、手を伸ばす。けれど空には届かない。届くわけがなかった。すぐに手を下ろし、胸ポケットに入れてあったキャメルの箱を取り出す。
「こんなとこで一服ってのも、なかなかない体験だよ」
慣れた手つきでライターを取り出して煙草に近づけたが、手が滑った。
落下してゆくそれをため息で見送り、キャメルをポケットに戻す。何をしているのだろうかと我に返り、勢いでこんな高いところまで登ってしまった自分を反省した。
「うわあ、何してんですか」
下の方で声がしたので、降りようとした体を一時停止した。
声の主は雅宗が落としたライターを拾い上げ、こちらを心配そうに見上げている。ライターを落としたせいで、見つかってしまった。
「――あ」
雅宗を見上げている人物が、湊であるのに気づいた。向こうは気づいているだろうか。そもそも雅宗を雅宗として認識しているかどうかがわからないのだが、とりあえず慎重にクスノキを降りる。
「危ないですってば!」
「大丈夫ー、大丈夫ー」
落ちやしないかとおろおろしている湊は、その辺に普通にいるようなカジュアルな恰好をしていて少し残念だった。袴姿が一番似合っているのだが、今日は白シャツにパンツスタイルだ。そんなくだらないことを考えていたら、最後の最後で足を滑らせた。
「うぉ」
膝を幹に擦り付けてずるずると落ちるように地面に着地した雅宗に、見守っていた湊は安堵のため息をついた。
「あんなとこで煙草吸う気だったんですか? 危ないからやめて下さい」
「ああ、ごめんね。ついね」
「本当にわかってます? あそこから落ちたら危険ですし、煙草の火が木に移ったりしたら……」
くどくどと説教臭い湊は、やはり雅宗を認識していないかもしれない。あえて名乗る必要もないだろう。
「そうだね、ごめん。もうしないよ。火事にならなくて良かっ……」
そこまで言ってから、雅宗の表情が唐突に凍りついた。
……火事。
破裂音。
響歌の泣き喚く声。
きな臭い熱い空気。
血を流して倒れている誰か。
(雅宗、ごめんね)
がんがんと壁を打ちつけるあの音は、
(雅宗、もう……)
「……大丈夫ですか? 痛みます? 血が」
湊の心配そうな声に、現実に立ち返る。ひりひりとする膝を見ると、スラックスの表面が少しほつれて血が滲んでいた。急に力が抜けて、幹にもたれて座り込む。
眩暈がしているのは、血を見たからではない。そうではなかった。
「いや……大丈夫」
「手当てしましょうか。……雅宗さん」
「――え」
名前を呼ばれて、覗き込んでいる湊を見上げ凝視する。あの頃より少し大人びた気がする。三年近く経っているのだから、成長もするだろう。それでも変わらず、可愛らしい男だ。
(ああ、こういう顔が好きなんだよねえ、尚志は)
宇佐見光も、系統が似ている。
自分とは似ても似つかない。
「立てます?」
「いやほんとに……お気遣いなく。このくらい平気だから。……なんで俺の名前?」
「ああやっぱり。合ってました? 響歌さんの、双子のお兄さんでしょう」
「響歌に会ったのか?」
湊は困ったように笑んで、答えなかった。
「柴田は元気ですか?」
神社の裏手にある湊の自宅に招き入れられて、客間と思しき部屋で傷口を消毒して貰っていたら、いきなり聞かれた。
「……俺があの子と一緒にいたこと、覚えてたんだ」
「覚えてますよ」
小さく唇の端を歪めた湊は、絆創膏をぺたりと雅宗の脚に貼り付けて救急箱を閉じた。
「そうかあ……ふうん。まあ、元気にしてるよ。って言っても、俺も再会したのは最近なんだけどね。ちょっと日本を離れてて」
「僕も、ここを離れてたんですよ。祖父の跡を継ぐ為に、色々勉強を」
「尚志には会わないの?」
「僕はただの高校時代の先輩ですから」
淡々と喋る湊は、昔尚志とあったことを忘れてしまったかのように見えた。
そんなものかもしれない。
(そう、そんなもの)
時が経てば、いずれ忘れる。
思い出にすらならない場合もある。
故意に忘れてしまうことだってある。そうした方が良い場合は。
けれど突然前触れもなく、思い出してしまうこともあるのだ。思い出さない方が良いことを。
壁を打ちつけるあの音は、……
響歌ではない。
あれは響歌ではない。
何故なら響歌は、隣の部屋にはいなかったからだ。あの部屋には誰もいない。あの家には雅宗以外の誰も住んでいなかったのだから。
あの音は幻聴だ。
雅宗の耳を脅かすあの音は、父親の頭が壁にぶつかり血を流す音なのだ。そして父を押さえつけていた凶悪な腕は、
(……俺の肩に、繋がっている)
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