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第38話 既視
雅宗は一階の居間から聞こえる乱暴な物音に気づき、机に学校の課題を開いたまま立ち上がると、自室を出て犬のぬいぐるみを手に階段を降りていった。
「母さん……落ち着いて」
椅子をがんがんと壁に打ち付けていた雅宗の母親は、声を掛けた我が子を確認すると、とりとめのない言葉を叫びながら椅子をこちらに投げつけた。背後の壁にぶち当たる。
「雅宗……響歌がどこにもいないの……どこへやったの?」
「……母さん……」
椅子を拾い上げてちゃんと立て直すと、今度はダイニングテーブルの上に載っていた新聞やカップを投げ始める。がちゃんと壊れる音がして、雅宗の足元に砕けたカップの破片が散らばった。
「深呼吸して。母さん……響歌は、ここにいるじゃないか」
極力優しい声を出して、母をなだめる。その手には柔らかい素材で出来た犬のぬいぐるみがあった。それを人形劇のように動かしてみる。
「ほら……『ママ、大丈夫? 響歌はここにいるよ』……な、いるだろ?」
力が抜けたようにその場にへたり込んだ母は、ひどく頼りなかった。
響歌は母と似ていた。きっと大きくなったら、もっと似ただろう。けれどそれは叶わない。
響歌の時間は永遠に止まってしまったのだ。
「今これ片付けるから、母さ……ママは、動かないでね。危ないから」
途中から響歌を意識した話し方に切り替え、先程割れたカップの残骸を片付けてゆく。茫然と動かない母はそれを視線だけで追っている。
「……あぁ……響歌……ありがとう。でも、危ないから、雅宗お願い。代わりにやってあげて」
響歌を心配した母は、実際に片付けているのは雅宗だというのにぬいぐるみの方を気にかけながら呟く。
「――わかった」
苦い笑みが漏れた。
すっかり片付いてから、まだ座り込む母の少し乱れた髪を直すように撫で、目線を合わせる。
「今日、病院の日だったろ? ちゃんと薬貰ってきた?」
「ええ……」
「ちゃんと飲んだ?」
「……まだ……まだだったわ……」
億劫そうに言った母は、ゆっくりと立ち上がり、テーブルに置かれていた処方薬の入った分厚い袋から、複数の錠剤を取り出した。
「水を……持ってくるよ」
なんとなくいたたまれなくなって、雅宗は母から視線を外した。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
同じ子宮の中で育ち、同じ時に生まれた双子の妹は、元々体が弱くて小学生の時にこの世を去った。それから両親の折り合いは悪くなり、父はここにいることが出来なくなったのだ。
母と二人きりの生活だったが、椅子は三脚あった。来客用ではなく、響歌の為の席だった。
母はたまにヒステリーを起こして、さっきのような状態になる。
響歌の死を、認めたくないのだ。
雅宗が傍にいても、それは埋めることの出来ない空白なのだろう。わかっている。手のかかった響歌を、母はとても愛していた。
このまま母と二人でいるのは非常に気が滅入った。そう思っていたが、ある日それは母の自死という形で唐突に終わりを告げた。
あっさりとしたものだった。
けれど未成年だった雅宗が一人で生きていくのには、少し時期が早かったのだろう。
ひっそりとした密葬で、母の体はすんなりと灰になった。その後何日かして、離婚して出ていった父が、訪ねてきた。
父の姿は、よく見えなかった。顔の部分はマジックで塗り潰したかのようなノイズが走り、声もなんだかざらざらとした音が混じってまともに聞こえてこない。ここを出て一緒に暮らすかと言われても頷くことは出来なかった。
離婚などしなければ、母もあそこまでおかしくはならなかったかも知れない。響歌を失っても、互いに支え合って生きてゆくことが出来たなら、雅宗もこんな思いをしなくて済んだ。
仮定の話でしかないが、少なくとも父が傍にいれば、一人きりで母を受けとめなくても良かった。
今更何を言っているのだ。
父などいらない。
一人で生きてゆける。
(一人じゃないよ、雅宗)
響歌の声がどこからか聞こえる。
ああ、そうだ。
響歌がいるじゃないか。
ずっとずっと、一緒に生きてゆく双子の片割れ。……雅宗の傍に、ずっといる。
気づいたら父のことを壁に何度も打ち付け、椅子で殴っていた。居間を舐めるように炎が広がる。自分が火を放ったからだ。カーテンが燃えている。このまま皆一緒に死ねたなら、楽になれる気がした。
父の顔は、相変わらず見えないままだった。
すべてを終わりにしたかった。
(ごめんね、雅宗)
誰かが泣いている。
誰かが笑っている。
闇が濃すぎて何も見えない。
何もかもが遠すぎて辿り着けない。
手を伸ばしても、
誰もその手を握り返してはくれない。
どこからが真実で、どこからが幻想なのか、雅宗にはわからない。
あるいはすべてが悪夢なのだろうか。
誰かが救ってくれるのを、待っているのか。
(……尚志)
こんな自分を知ったら、いくら強靭なあの子だって逃げ出すに違いない。
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