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第39話 溝

「あらぁ~! ユイちゃん今夜も可愛いわねえ~」  女装愛好家の店・アクロに、悦子ママの濁声が響いた。  来るならこっちに来いと光に言われたので、尚志は夕食後雅宗がまだ戻らないことを気にしながらも家を出てアクロに来た。しかし雅宗だって大人の男なのだから、放置しておいたところで問題はないはずだ。 (ちろり庵で話し込んでるのかも)  庵主に会いに行くと言って出て行ったのだ。長いこと留守にしていたのだから積もる話があるかもしれない。夕食もあそこで済ませているに違いない。  カウンター席でピニャコラーダを飲んでいた尚志の隣に、見たことのないワンピースを着た光が繭に挨拶してからやってきた。光……というよりも、この恰好をしている時はユイと呼んでやった方が良い。ユイは元々光の飼っているうさぎの名前だが、ここでは光自身の名前となる。  普段の光より髪が長い。巻き髪のウィッグを着けている。そして元の素材が可愛らしいところに、美容専門学校で勉強しているだけあってメイクの腕がなかなかで、お人形のような姿に仕上がっている。  中身はどっちだ? と尚志は可愛らしい「少女」を見つめた。  二重人格なのだ。元々そうだったわけではないが、結果的に尚志が追い詰めた形になり、今の状態が出来上がっている。だからというわけではないが、光に対してもう一人付き合っている人間と自分、どちらかを選べとは言いにくい。  時が解決するのを待っている。非常に消極的なやり方だ。 「よう。その恰好初めて見るなあ」 「……先生が買ってくれた」 「その言い方は光か」  尚志はうっすら安堵して、グラスに口をつけた。人格がユイに交代している時は、決して「先生」などとは呼ばないからだ。実はユイのことは若干苦手だった。どのように対処していいのか、困る。光と同じはずなのに、違う女。実に困る。  しかし買ってくれた、という科白に微妙に不機嫌になる。確かウィッグもプレゼントだったし、相手は尚志よりもはるかに年上で、更に自分で動物病院を開業している獣医なのだからそれなりに金銭的余裕はあるのだろうが、そうぽんぽん物を与えられると、こちらとしてもなんとなく気になる。 「なー、俺もなんかやろうか?」 「いらなぁい。大体誕生日でもないのに、貰う理由ないもん。それに柴田、バイトとか全然してないじゃん。ユイだってしてんのにさあ」  ここでは光は一人称を「ユイ」と言う。折角女装しているのに「僕」では興醒めするという理由らしいが、尚志としては、どうしてもうさぎのユイを連想してしまい、「うさぎがバイトするかよ?」と奇妙な想像をしてしまった。  しかし尚志がバイトをしていないのは本当のことだった。絵を描くのと肉体作りに時間を割いてしまうので、実は財布があまり潤っていない。しかしこの前絵本の仕事をやらせて貰ったので、収入のあてはぼちぼちあると言えば、あった。けれどそのことを、光には告げていない。  絵本の話を受ける前に別の友人に漏らした位で、その後は特に誰にも言っていない。勿論親は知っているし、本名で出したので気づく人間は気づくだろうが、自分からアピールするのはなんとなく躊躇われた。  自信がないのかと問われたら否と答える。ただ、100%自分の力であるとは言い切れない。実際父親のコネがなかったら、高天原未雨と知り合うこともなかったのだから。そんなつまらないこだわりがあって、誰にも言わないでいる。  そういうわけで、光にしてみれば尚志の財布はかつかつだった。 「誕生日って、来年じゃね。あっちのヤローばっかに貰ってさあ、なんかこう」 「貰ってるのはユイであって、光じゃないわけで。……あ、でも、柴田がそんなん気にするんだったら、実は欲しいもんあるんだよねえ」  光が砂糖をまぶしたような笑顔を尚志に向けた。女の恰好をしているとは言ってもやはり光は光だ。あまりに可愛らしいその笑顔に、ぐらりと来る。 (あああ、やりてえ。今すぐやりてえ)  この瞬間、雅宗のことは頭からすっぽり抜けた。  光のいない間、自分がどのような行動を取ってきたか、うっかり忘れた。 「何が欲しいん」 「溝」 「――何よ、溝ってのは。まさかおまえ、俺との間に溝を作りたいとか、そういう予想外の厳しいことを言ってんのか? やっぱ先生一本に絞りたいとか言うんか」  言われた意味がよくわからなくて、尚志は顔を歪めた。可愛い顔であっさりとひどいことを言われたのだろうか。  光は困った顔で小さくため息をついた。 「柴田、酔ってる?」 「酔ってねえ」 「ねーママ、こいつのグラス、何杯目?」  光の視線が、ちょっと目が据わってきた尚志からカウンターの中にいる悦子ママに移った。ママは「まだ二杯よぉ」と苦笑いで返す。光はカウンターのピニャコラーダをくんくんと嗅いでから、パイナップルジュースをママに頼んだ。まだ未成年だ。 「酔ってねえって。なあ溝って何よ」 「えーとだから、この前ネットでうさぎサイト見てたら……うさぎがさあ、U字溝(ユーじこう)にはまって遊んでるんだよ? 可愛いんだよおー。んでさ、値段は安いんだけど、コンクリで重たいからレジに持ってけないんだよね……」 「悠司(ゆうじ)だとお? おまえいつの間にユイに」 「柴田……やっぱ酔ってる」  悠司とは獣医の名前だった。  呆れ顔の光に水の入ったグラスを押し付けられ、尚志はしばし停止する。そんなに酔っているつもりはないが、光の目には酔っ払いに見えるのだろうか。 「……わりぃ。俺絡んだか?」 「いいよもう水飲んで。でね、聞いてた? その溝が欲しいなって言ってんの」 「どこで売ってんだよそれ」 「ホームセンターとか。何百円かで買えるからさあ。それ買って? ていうか、単に持ってきて欲しい」 「んだよそれぇー……」  随分と見くびられたものだ。尤も光にしてみれば、尚志のポジションはあくまで友人であって、その友人に何かをねだるという行為はあまり良くないのだろう。しかしそれこそが悔しかった。 「プレゼントは値段じゃないよ。欲しがってるもん貰えるのが、一番嬉しいけどなー」 「そうかもしんねえけど」  ぼやいていたら、背後から繭が近づいて尚志の首の辺りをむにゅりと羽交い絞めにした。何故かよくやられる。何をするのかと、じろりと兄の顔を睨みつける。 「いやあ尚志、こわあい」 「かわいこぶんな。離せって」  ぶん、と兄の腕を払うようにして、隣の光を何気なく抱き寄せる。しかし人目のあるところで尚志にべたべたされるのがどうにも恥ずかしいらしい光は、すぐにその逞しい腕から逃れて席を立ってしまった。 「邪魔すんな。逃げられた」  今まで光が座っていた席に、女の恰好をした兄が座った。尚志にしてみれば少しも嬉しくない。光はと言えば、年の離れた常連客と何かを話し始めてしまった。光目当てで来たのに、どういうことだ。 「まあまあ。今日は雅宗一緒じゃないの? あたしの部屋貸してるんだって?」 「いいだろ、空いてんだから」  雅宗本人から聞いたのだろうか。あるいは母親かもしれない。父親には勘当されたが、未だに母親とは連絡を取り合っている。 「案外仲良かったのねえ、あんたたち。もしかして一回くらいエッチした?」  繭が冗談ぽく核心に触れる問題を振ってきたが、尚志はちらりと光の去った方を見てから、あっさりと答えた。 「一回どころじゃないけど」  言ってから、そういや雅宗は兄を好きだとかなんとか口にしていなかったか、と思い出した。しかし言ってしまった物は仕方ない。言われた繭は、びっくりした顔を見せたがショックを受けているというわけでもなさそうだった。 「そうなの? 軽いジョークだったのに。わー、雅宗趣味わるぅ」 「どういう意味だよ、実の弟相手にひどくね?」 「いやいや。てゆーか、雅宗って尚志の路線と違くない? それに、ユイちゃんはどうすんのよ」 「どうもこうもねえし」 「二股すんの?」 「そんなんじゃ、」  そんなつもりは毛頭なかったので否定しようとしたが、ふと黙り込む。  二股、だろうか?  どうして雅宗と寝るのか。  カロリーの消費と、コミュニケーションと、安堵。 (……安堵?)  雅宗にされると、心のどこかで安心するのだ。普段受身は好きじゃないのに、彼にされるのだけは好きだ。しっくり来るから。体に馴染んでるから。初めての男だからか。わからない。  どうして光と寝るのか。  好きだから。可愛いから。雄の本能が己を突き動かすから。 (でも、あれだよ。雅宗に対してはさあ、……俺、完全ネコだし。これでも二股って言うんかなあ)  心の中で呟いた言葉に、尚志は何故か急に恥ずかしくなって口元を押さえた。  攻めようと思えば攻められる。けれど彼に対してはどうしてか、そういう気になれなかった。光は違う。攻めたくて仕方ない。この違いは何だろう。やはり見た目の差だろうか。 (でも雅宗とすんの、……好きだな)  自分がどうしたいのかわからなくなってきて、尚志は無意識にうーん、と唸った。 「――なあママ、これもう一杯くれよ」 「尚志、何話逸らしてんの。ママごめん、もう終わり。この子酔っ払ってるわ」  空になったグラスを押しやっている尚志の手を、繭がべちんと叩いた。なんだかまともな答えを考えるのが面倒臭くなってきて、尚志は立ち上がる。 「あーもう帰るわ俺。おい、ひか……ユイ、一緒に出よ」  尚志を放置して常連客のメイク指導に入っていた光は、名残惜しそうに別れの言葉を交わしていたので、先に店の外で待つことにした。  久しぶりに会ったのだから、光の部屋にお邪魔しないと気が済まない。  ――そう言えば雅宗は、戻ってきただろうか。  どうしてか気に掛かった。二股などと言われたからかもしれない。 「二股……ねぇ……」  それを言ったら、光だって二股のようなことをしているではないか、と考えて、けれど口にするのは憚られた。  それは言ってはいけない問題なのだ。

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