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第42話 瞑目

 揺れている。  ぎしぎしと重みがかかってくる。自分以外の重量が加わったベッドのスプリングは微かに音を立て、耳元をほんのり刺激する。  誰かいる、と尚志はうっすら瞼を開けた。 「……あ……、ま、」  雅宗、と言おうとして、静かに伸ばされた指先で唇を止められた。軽い布団の上から尚志を覆うように跨っているその男は、どこか薄っぺらい笑顔を浮かべてじっとこちらを見ている。  今何時だろうか、とカーテンの閉ざされた窓を見る。  まだ外はそんなに明るくない。光のアパートに泊まろうと思っていたのに、宿泊を拒否されて真夜中に帰宅する羽目になった。  光は尚志の考えていることがわからないと言うが、こちらにしてみれば同じ言葉を返したいくらいだ。  尚志が自宅に戻ってきた時、部屋を覗いても雅宗はいなかった。 「おかえり」  ぼそっと言って、唇の上に置かれた雅宗の指を自然に口に含む。  口の中で一度ぴくりと関節が動いたが、抜かれたりはしなかった。何やってんだ俺、と指に舌を絡めながら尚志はぼんやり考えたが、しばらくそうやって雅宗の硬い指先を優しく舐めていた。 「尚志、ふやける」 「……ん」  舐める感触が変わってきたと思っていたらようやく雅宗が指を抜くような動作をしたので、尚志はゆっくりと口を開けた。唾液に濡れた指先は多少ふやふやとして、生温かい。 「なんでこうエッチなんだか。無駄に上手いなあ。……このまましていいの? 俺、欲情しちゃったよ。尚志責任取れる?」 「そのつもりで来たんだろ」  寝ているところをのこのこベッドまでやってきたのだから、最初からそうするつもりだったのだろうに。雅宗は答えたりはせずに、笑顔のまま布団をめくって中に入ってきた。 「酒くせえな」 「うん、さっきまで飲んでたからさあ。しょうくんとこに顔出したんだけど、君は生憎既に光くんと消えた後だった。泊まってくるかと思ってたよ」  指摘された途端、尚志は苦々しい顔になった。  あんな会話の後で断られると思ったのに、三日分がどうの、と光に言われて良かった良かったと安心したのも束の間、何故かどうにもその気になれなくて何もしなかった。そうしたら帰れと言われたのだ。 「なー、雅宗……、俺が勃たなかったら帰れってひどくねえ?」  顔が近い。アルコールの所為か若干虚ろな雅宗の瞳の中に映った自分が見える。言ってから、何みっともないことを打ち明けているのだと気づいたが、雅宗は笑ったりしなかった。いや、笑顔は浮かべているが、それは元からだ。 「うん、それはひどいねぇ……だけどなんで駄目だったの? 好きなんでしょ」 「……うー、んと」  光とのやりとりを思い出す。  雅宗とのことで、引かれたのも少しあるかもしれない(多分引いたのだろうあれは)。謎の「三日分」という指定も気になる。漠然とではあるが、色々心に引っかかっている。いくら久しぶりでも光がすぐ隣にいようとも、どうにも心の方が萎えてしまったのだ。無理にする必要はない。  けれど理由を全部雅宗に列挙するのは話が長くなりそうだったので、端折ることにした。 「あんたとの関係、あいつに突っ込まれたから」 「なに、もう突っ込んでほしいの。性急だな」 「――いや違うって」  意味が違う。否定した尚志に構う様子もなく、慣れた手つきで下着が引き下ろされて、ふやけた指先が肌に触れてきた。 「な、これって二股っつうの?」 「二股? ……ってここ? 脚と脚の間のこの辺のことか?」  雅宗はにやにや笑いながら、また言葉の意味を違う風に取って脚を開かせた。 「なんで茶化すんだよ」 「自分で考えたらいいよ、そういうのは」 「だってよお、俺あんたとすんの嫌いじゃないし、別にいんじゃね? とかどっかで思っちゃうんだよな。使ってんの後ろだし」  尚志はがっくりとため息をついた。 「前だと問題あった? そういう理由で俺の子猫ちゃんになってるのか?」 「……きめえ言い方すんな」  妙な表現をされ、尚志はあからさまに嫌そうに顔を歪めた。雅宗はしかし気にもせずに再度同じことを口にする。 「そういう理由だったのか?」 「いや別に……なんつーの。だから、さっきも言ったじゃん。あんたにされんの、嫌いじゃないから」 「そう」  雅宗は静かに微笑した。 「嫌いじゃないんだ。苦手って言ってなかった?」 「……それは、その」 「珍しくしどろもどろじゃん。どうした」 「いんだよ、……それはもう」  何故か頭に血が昇るような居心地の悪さを覚えて、尚志は雅宗から顔を逸らした。しかし逸らした顔に手を添えられてすぐに向き直される。 「指、入るから」 「わざわざ申告しなくていいって……」 「舌も入るよ。……はいこっち向いて」  焦点の合っていない雅宗の目。近づいたそれを覗き込むように見つめていたが、濡れた指が体に触れた感触に神経が粟立って、思わずぎゅっと目を瞑った。 「苦手じゃなくなったってことか? ……ああ、だから駄目だったんじゃない? 抱っこして欲しかったんだ」 「違ぇよ……そ……うじゃなく、って」  びくびくと体を震わせながら、キスを受け止める。目を開いたら何故か雅宗の空いている方の手に遮られた。 「な、んだよ」 「閉じてて」 「なん……っで」  いつもキスする時はお互い目を瞑ったりしないのに、今日はなんだろうか。雅宗の手の下で目をわざとぱかぱか開け閉めして、その手をどけるように意思表示するが、どかしてくれない。 「尚志、睫毛が当たってくすぐったい」 「見えねえ……もんよ」 「俺のことは見なくていい」  ひどく単調に言われた。  瞼を塞いだまま尚志の唇を貪ってくる温かい生き物。  見えないと、それが雅宗なのか、誰なのかわからない。けれどこれは雅宗の気配だ。視覚以外の五感すべてでこれが誰であるかを感じ取ろうとすると、何故か無意味にどきどきして困った。 (あー……だから目ぇ瞑んのか?)  けれど視覚に頼れないのは不安で嫌いだった。 「どうして、見なくていいんだよ」  雅宗は答えなかった。 「聞い、てんのか……」 「尚志の気持ち良さそうな声なら」  苦手だと言ったが雅宗とするのは嫌いではない。その理由がなんであるか、尚志は知っている。  唇が離れて、翳されていた手のひらが遠のいた。  その視線が遠く感じられたのは、本当に酔いの所為だったのだろうか。雅宗は開かれた尚志の目を数秒見つめて、口元から笑みを消した。 「尚志の目が怖いからだ」  ぐいっと思い切り腰を引き寄せられて、不意に掠れた声が漏れた。  雅宗に怖いなんて言われたのは初めてだった。  そんな風に思われていたのかと思ったら、なんだか胸が締め付けられた。  この痛みはなんだろうか。遠近感が狂っているような、気持ちが悪いこの感覚はなんだろうか。  どうして今更そんなことを言うのか、尋ねる余裕など今はなかった。

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