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第43話 薄暗い家
雅宗の姿がどこにも見当たらなくなってから、記憶を頼りに来たことがある家。呼び鈴を押しても誰も出てくることはなく、人のいる気配は感じられなかった。照明はどこにも点っておらず、しんとしていた。
玄関先には確かに「岸」という文字が刻まれていた。
尚志の記憶が間違っているわけではなかったのに、雅宗どころか他の家人すらいないというのはどういうことだろうか。学校の帰りにわざと遠回りして、何度かこの家の前を通り過ぎたが、決まって暗く静まり返り、空き家のような佇まいが存在しているだけだった。いつも乗っていたグリーンの車も、見当たらなかった。
もういないのだと、諦めたのはいつだったろうか。
尚弥に聞けばわかる。そう思ったのになかなか切り出せなかった。自分は捨てられたのだと思うのが嫌だったのかもしれない。
(仕事で転勤するなら、そう言えっての……)
しかしそれを知ったからと言ってすっきりするわけもない。言わないでいなくなって良い程度の存在だったのか、という思いが残る。
だから雅宗のことは忘れるよう努めた。むしろつまらない肉体関係でしかなかったのだと思うようにした。それが終わっただけの話。……そのはずだったのに、どうして戻ってきたらあっさり関係を修復してしまうのだろう。
(雅宗の考えてることも、わかんねえ)
人の考えていることなんて、全然わからない。
需要がある、と以前雅宗に言われた。自分の姿形は確かに需要があった。気が合ったそのケのある男となら大抵誰とでも寝れたし、相手が尚志にそれを望むなら脚だって開いた。雅宗が特別なわけではない。雅宗だけに抱かせたわけではない。
それでもどんなに経験を重ねても、尚志の中から苦手意識が消えなかった。
それは多分……、
(雅宗じゃない奴にやられんのが、本当はやだったんかな)
光でさえ苦手なのに、彼とする時だけは苦手意識がどこかに消える。
(でも、雅宗を好きなんだとしたら)
光のことも好きな自分がいる。
光は別人格を作り出して二人の人間を選ぶなどと、尚志からしてみればかなりアクロバティックなことをやってのけてみせるが、尚志は二重人格者ではない。そんな妙なことは出来ない。選ばないことを二股と呼ぶなら、尚志はどうしたら良いのだろう。
(もし俺が、光やめて雅宗だけ選んだりしたら……)
どんな反応を示すだろうか。
怒るだろうか。それとも、面倒が減っていいと喜ぶだろうか。
わからなかった。
「尚志?」
声を掛けられて、尚志はぼうっと突っ立っていた自分に気づいた。
雅宗の家。
そこに今、一緒に来ている。雅宗はポケットから鍵を出して、ドアノブの鍵穴に差し込んだ。
「な……雅宗、ここってさ」
雑草が茂っているが、雅宗が留守にしている間中放置していたにしては茂り方が浅かった。たまに誰かが手入れしていたのだろうか。それとも、尚志がわからなかっただけで、やはりこの家には誰かが住んでいたのかもしれない。
「――とりあえず入ろうか」
「ああ、……うん」
夜明けが来る少し前に戻ってきた雅宗は、昼近くまで尚志とベッドの中にいた。ごろごろと戯れてみたり、思い出したように再びセックスに溺れたりしていたら、いつの間にか太陽は天高く昇っていた。
「いい加減起きねえと……母ちゃん来るかも」
昨夜のアルコールはあまり残っていないが、なんだか疲れてしまった尚志はだるそうに身を起こした。大きなあくびをして、なんとなくうなじに貫通したバーベルの先端を指先でなぞる。
「うーん……そのピアスは俺には理解出来ないなあ。乳首のはやらしくて好きだけどね。やっぱ尚志はマゾっ気あるんじゃない」
「ただのファッションー。かっけえだろ」
「まあ、俺は遠慮するけどね」
どこか意地の悪い笑みを浮かべて顔を近づけた雅宗は、ぺろんと尚志の鼻の頭を舐めた。
「……やっめ、」
鼻を舐められた途端、尚志はとても嫌そうに身を引いた。
鼻をごしごし拭きながら怒ったような口調で返したが、それは本当に怒って言っているわけではなかった。雅宗はそれを知っているのか、まるで気にも留めずに笑う。
「いっぱいストレス解消出来ただろ。楽しかったなあ。光くんとのいざこざは忘れられたかな?」
「ああもう起きんぜ」
雅宗から顔を背け、尚志はベッドから勢い良く立ち上がった。たくさん動いたし時間も時間なので空腹感満載だ。いつまでもだらだらしているわけにはいかない。それに加えて光のことを蒸し返されるのも気分があまり良くなかった。光に対しても怒っているわけではないが、したいことがよく見えないので困惑する。
目覚ましと気分転換で、シャワーでも浴びることにしようと、尚志はバスタオルを肩にかけながらまだベッドでごろごろしている雅宗にふと視線をやった。
「――雅宗一緒に入るか?」
「折角だけど、不自然でしょそれ。尚志が一人暮らしとかだったら、遠慮なく入るけどねえ。……ね、俺居候の身でさ、尚志とこんなことしてるって君のご両親にバレたら、どうなっちゃうんだろう?」
ベッドに寝そべったまま、脱ぎ散らかした服の中からいつの間にか煙草を出した雅宗が、紫煙を燻らせながら面白そうに呟いた。
「さあ。親父は怒るかもな……んじゃ、俺ちょっと行ってくる……けど……」
「まだ何か?」
「俺って目つき悪い?」
ちょっと困ったように視線を向けた尚志に、疑問を投げかけられた雅宗は数秒止まった。が、少ししてから口元に嘘臭い笑みの形を作る。
「そんなことないよ?」
「俺の目が怖いって、あんた言ったじゃん」
「そんなこと言ったか? ごめん、覚えてないよ。酔ってたからなあ。ほら、さっさとシャワー浴びてきなさいよ。この後付き合ってもらいたいとこあるから。外でメシ食おう」
取り繕った表情を検分するかのような尚志の目から逃れ、立ち上がった雅宗はカーテンを開けた。
眩しい陽射しが部屋に差し込んできた。
どこに行くのかと思っていたら、ちろり庵で昼食を摂った後、雅宗の自宅へ行くと言われてここに来た。理由を尋ねたら、会社から帰還命令が出たのだと教えてくれた。それで自宅の方を少し様子見するということだったのだが……
「とりあえず中に入ろうか」
雅宗に言われ、鍵を開けた玄関に足を踏み入れる。
家の中はとても暗い。外から見た分にも、カーテンや雨戸は閉ざされていた。むっとした空気は、長いこと換気を怠っていたからだろうか。
「外よか涼しいな。でも掃除しないと駄目だなあ」
「……な、家族とかってどうなってん」
靴を脱ぎながら疑問を投げかけるが、雅宗の返事はない。以前訪れた時は女物の靴が置いてあったはずだが、今は雅宗と自分の靴があるだけだ。尚志はふと興味が湧いて、靴箱の扉を開けた。
やはり女物の靴が、何足かある。
誰の物だろうか。
「尚志、おいで。寄り道しない」
「――ああ、今」
慌てて靴箱の扉を閉め、雅宗に続く。廊下にはうっすらと埃が積もっている。やはり人が住んでいるようには見えない。
「なあ。日本にちゃんと帰ってくるってことは、俺んちの居候は終わりってことだよな?」
「残念ながら、その通り。ずっと俺がいてもおばさん達に迷惑だし。はいこれ掃除機な。その辺綺麗にして」
「……動かねえし」
ごとごとと物置から持ってきた掃除機を差し出され、促されるままにスイッチを押したが、壊れているのかうんともすんとも言わない。雅宗は少し考えてから、「ああ」と呟く。
「ブレーカーだわ。そこでちょっと待ってなね」
そう言うと、スリッパをぱたぱたさせながら奥へと消えてしまった。
途端に、静けさが耳に痛く感じられた。
外へ出れば太陽が燦燦と地面を照らし、人の気配や蝉の鳴き声が聞こえる。完全な静けさはこんな昼日中には無理だ。けれど扉一枚隔ててしまうと、こんなにも静かなのか。
待てと言われたので尚志は掃除機を持ったまましばらく待っていたが、雅宗は数分経っても戻ってこなかった。
何をやっているのだろうか。
「暗くてわかんねえのかな……」
懐中電灯でも持ってくれば良かった、と思いながら雅宗が消えた廊下の奥へ歩いてゆく。
「雅宗?」
中へ行くほど闇が視界を包んでゆく。
埃の臭い。
廊下を歩く自分の足音。
どこにいるのか、雅宗は返事をしない。薄暗い家の中で、その姿を捉えようと視線を彷徨わせていたら、
……ばくん、と、ブレーカーを上げた音がして、明かりが点いた。
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