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第44話 焼け焦げた跡
照明の点いた居間の非常識な有り様を目の前にして、尚志はしばらくの間無言で立ち尽くした。
「……何だよ、ここ」
暗いはずだ。
光が差し込むべき出窓はぞんざいに板で打ちつけられ、外からの陽射しが入ってくることはない。庭へ続くはずの大きなテラス窓が雨戸で閉ざされ、カーテンはかかっていない。本来その色ではなかったであろう壁は、惨たらしく焼け焦げたように黒ずんでいた。――いや、それは実に焼け焦げた跡でしかなかった。
閑散とした、空間。
椅子が三脚と何も乗っていないダイニングテーブルが一つ。それらはこの部屋の色彩とは異なって、特筆すべきところもない平凡な物だ。けれどこの焼けた部屋にそぐわない家具はどうしても浮いてしまい、誤魔化しようのない違和感を醸し出している。
ブレーカーの前にいる雅宗はやはり無言で、何もない壁一点を睨んでいる。異様な部屋を見渡したりせず、じっと突っ立っているその姿は不自然に見えた。
「雅宗、おい」
「――ん?」
「なんなん、この大惨事。火事でもあっ……」
「そうみたいだねえ。人が留守の間に、ひどいな」
尚志の科白を奪うように重ねて言葉を発した男は、やれやれと陽射しで傷みがちの髪を掻き上げた。
自分の家の惨憺たる様に対して途方に暮れている、というよりも、その態度はどこか嘘っぽくて白々しい。髪を掻き上げる仕草がなんとなくかっこいい、なんて関係のないことを考えてしまった尚志は、しかしその白々しさに眉をひそめ、困ったなあなどと呟いている男に近づいた。
「うちの人とかは?」
「……さあ、いないねここには。避難したのかな?」
「連絡取ってみたりしねえの」
尚志の至極当然な質問に、雅宗は口元を押さえるようにして考える素振りを見せた。
「そうだな、あとで。とりあえず、電気通ったからその辺掃除機かけて。俺はちょっと、自分の部屋見てくるから」
「掃除機って……」
掃除機とかいうレベルではないのに、淡々と何を指示しているのだろうか。しかし困惑している尚志をよそに、雅宗は背を向け居間から去ってしまった。
「普通、もちっと騒ぐだろ?」
その疑問に答えてくれる人間はいなかった。
焼けているのは居間だけのようだ。
特に奥の壁一面がひどい。そこに何か燃える物が置いてあったのか、あるいはそこが出火元であるのか、他と比べてやけに焦げ跡が目立つ。掃除機を引っ張ってきて床を綺麗にするものの、炎が舐めた痕跡を気にするなというのは土台無理な話で、尚志の視線は自然と焦げた部分へと向かう。
(全焼してねえってことは、誰かが消したんだろうけど)
どうして修繕もせずにそのままにしておくのだろう。そして何故何事もなかったかのようにテーブルセットが置かれているのか不思議で仕方なかった。こんな部屋で冷静に食事や団欒など出来るはずもない。
「椅子が、三脚ってことは」
三人家族ということなのだろうか。
普通に考えれば父母と雅宗で三人。別に深く考える必要などないが、彼がこの家に帰りたくないと思っていたのはなんとなくわかる。普通に円満な家庭なら、そういうこともないような気がするのだが……何か理由があるのだろうか。折り合いが悪かったとか、そういう類か。
それとも雅宗は、この放置された惨状を知っていたのだろうか。
(知っててもおかしかねえけど)
家が火事になるなど、大きなハプニングだ。たとえ雅宗が日本を離れていようとも、それくらい連絡するのは当たり前だろう。
そして、この家を直しもせずに、どこかに行ってしまった。
……しかし、と思う。
この家は、以前から人の気配が途絶えてはいなかっただろうか。火事になったのはいつのことなのだろう。
「…………なんか、しっくり来ねぇ」
一階を一通り回って掃除機をかけたが、やはり人が住んでいる気配がない。物がないのだ。だからこそ居間の椅子とテーブルは際立っておかしく見える。尚志は掃除機を一旦止め、片手で持ち上げると雅宗が上がっていった階段へ足を向けた。
ここに上がったのは、以前自分がひどいことをしろとせがんだ、あの時だけだ。それ以後は何故かここへ呼ばれることはなく、大抵ホテルか尚志の部屋で体を重ねた。
(チェス教えるって言ったのに)
結局教えてくれなかった。
あのチェス盤はまだ雅宗の部屋に置いてあるのだろうか。
「ここだっけ」
一度しか来たことがないので、どの扉が雅宗の部屋に通じているのかうろ覚えだ。尚志はしんとした廊下に掃除機を引き連れる音をきゅりきゅりと立てながら、閉ざされた扉をノックする。
「雅宗ぇ……って、いねえし」
尚志の記憶は間違っていなかった。
そこは以前訪れたことのある雅宗の部屋に違いない。ぼんやりとだが、家具の配置もこのような感じだったと思う。しかし机の上にチェス盤は置かれていない。
そして雅宗もまた、いない。
「どこ行ったんだよ」
掃除機から手を放し、長く使われていないカバーのかかったベッドに腰を下ろした。
そっとベッドの表面を触る。
過去にここでされたことを思い出し、腰の辺りがじわりと疼いた。
雅宗とは何度も寝ているし、今更ではあるのだが、ここでしたのはあの晩だけだ。雅宗なりの、「ひどいこと」をたくさんされた。
(俺って結構淫乱?)
あんなことを許して。またされてもいいと思ったりしている。自分ではマゾっ気はないと思っているが、それは単に気づいていないだけなのだろうか。
ベッドに顔を近づけてみたが、雅宗の匂いはしなかった。何をしているのかと、ため息をついてすぐに顔を上げる。ここも掃除機をかけてやった方が良いだろうと、立ち上がりスイッチを入れた。
「あ、まだあった」
掃除機を部屋の隅からかけていたら、昔見た時と同じように、尚志が描いたであろう絵が裏を向いて片隅に伏せられていた。
「ああもう、これ持って帰ってやろうかな……」
この絵が雅宗にとって必要のない物であるなら、いつまでもここに置いておくのは可哀想な気がした。絵が可哀想なのではなく、雅宗が可哀想だ。きっと貰った手前、捨てるわけにもいかないのだろう。
それを表に返し、久しぶりに見つめる。
(尚志の目が怖いからだ)
酔って忘れたという言葉が、ふと浮かんだ。
確かにあの時雅宗は酔っていたが、記憶をなくすほどに酔っていたようには見えなかった。寝込むこともなく普通に色々して、たまにまどろんで、昼近くまで一緒にいた。
「目が怖い……ねえ」
結構ショックな科白だ。
別に雅宗を睨みつけたりしていないのに、何が怖いというのか。今手元にある絵の中の雅宗の方が、よっぽど怖い。凄味があるというか……
(いや怖いって自分で描いててなんだけど)
正体不明の、誰か。
暗澹とした二つの瞳、何を考えているかわからない表情。
絵の具の色を間違えたのか。筆の置き方を間違えたのか。確かに雅宗は何を考えているかわからないところがあるが、この絵のように薄暗い表情はあまり見せない。
何がいけなかったのかわからない。
描いている時は、これで良いと思っていたのに。
……がたん、
考えていたら、どこかで何かが倒れる音が響いた。尚志は絵から顔を上げ、絵を握り締めたまま音源を探して部屋を出た。
もう一度、がん、と音がした。
音がした部屋の扉を開けようと手をかけると、立て続けにがんがん激しい音が中からした。一体何の音なのだ。尚志はわけのわからない不穏な状況を早く明確にしたくて、思い切り扉を開けた。
がっ がんっ がんっ
椅子を壁に打ちつける、耳障りな音。
鼓膜をぎりぎりと刺激する、嫌なリズム。
その音を立てている椅子を持っているのは、
「ちょ、雅宗っ」
尚志の知っている岸雅宗ではないような、そんな気がした。
止めに入った尚志が伸ばした腕めがけて、きつく椅子の脚を握り締めていた雅宗の右手が、
「――ま」
唐突に、離れた。
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