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第45話 幻影

 雅宗、  雅宗、  ずっと響歌の傍にいて。 「ずっとは無理だよ」  ずっとずっと、響歌と一緒にいてね。 「……それは、無理だよ」  言いたかった言葉を響歌に伝えることも出来ず、今まで心の中に押し込めていた。彼女の存在はとても煩わしく、けれど切り捨てる選択肢など雅宗にはなかったのだ。  双子だから。  同じ時に生まれたけれど、ずっと一緒なんて無理だとわかっている。共に生き共に死ぬなんて、永遠には出来ない。それでもたまに響歌を連れて、外へ出た。  家を抜け出すのはいつも夜中だった。月明かりと街灯に照らされ、二人で闇の中を歩いた。  手を離さずに。  歩調を合わせて。  心を繋いで。 (綺麗だね、お月さま)  天を見上げ呟く響歌の柔らかい笑顔は、とても壊れやすそうで儚い。直視せずに目の端でそれを捉え、そうだね、と雅宗は返す。少し欠けた月は確かに綺麗だったが、実のところどうでも良かった。  家の近所に昔から建っている神社の鳥居を抜けて、境内をざりざりと歩く。響歌はここの玉砂利の感触が好きで、何をするというわけでもないのに神社へ来たがった。自分たち以外誰もいないその場所は、静かすぎて少し怖い。  暗闇にざわめく樹木の群れ。枝葉の隙間から覗く、どこまでも続いている空は黒く塗り潰され、うっかり気を抜くと飲み込まれてしまいそうになった。 (雅宗)  響歌の指先が、立派なクスノキを示していた。 (響歌も登れるかな?) 「やめた方がいいよ」 (登りたいな) 「僕が登るよ。響歌は、そこで……見てて」  何か言いたそうな妹を地面に残して、雅宗は幹に手を伸ばした。  本当はどこまでも、  登って行けるのよ雅宗。  そう聞こえた気がしたが、下を見ることはせずに空のある方へ目を向けていた。  二つ上の幹に腰を下ろし、深く息を吐く。ほんの少しだけ天に近づいた場所は、地に足を付けている時よりも空気が澄んで思えた。ただの気のせいなのだろうけど。  足元で響歌の声が小さく聞こえた。僅かにノイズの混じった違和感のある声はしかし、それでも響歌の声だった。 (この前パパに会ったよ)  ふうん、なんだって? (雅宗は悪くないよって)  ふうん。 (痛かったし、熱かったけど、あのことは忘れていいって)  もう忘れたよ。 (響歌のせいだね)  そんなことない。響歌は悪くない。 (ずっと傍にいてって言ったからだね)  傍にいるよ。 (ごめんね)  ノイズがひどくなり、謝罪の言葉が耳をあっけなくすり抜けていった。どうでも良かった。耳鳴りが響歌の伝えたい何かを掻き消してしまう。拾うべき単語がどれなのかわからなくなってくる。隙間から見える月が赤く染まって見えた。  ぽたり、ぽたりと月から溢れ出した物が雅宗に降ってくる。目を閉じる。何も届かない闇が訪れ、ぬめった風が血の匂いをふわりと拡散させた。  父の匂いだと思った。  自分がこの手で流させた、この場にはない苦々しい命の残滓だ。  ずっと響歌がやったのだと、思い込んでいたけれど。  それは都合の良い欺瞞でしかない。 「――ま」  雅宗、と呼ぼうとしたのか、待て、という意味だったのか、どうでも良いことをぼんやり考えながら、椅子が手を離れたその先を雅宗は見ていた。  何かが折れるような音が部屋に響いて、尚志が手に持っていたキャンバスが椅子と共に床に転げ落ちた。  それは父の匂いではなく、尚志の血の匂いだった。  折れたのは骨だと、なんとなく思った。  尚志の大切な右手の骨をへし折ったのだと、そう冷静に考えた。雅宗は唇の端だけで笑い、フローリングへぽたりぽたりと落ちている真っ赤な雫をゆっくりと目で追った。 (ああ、さっきの月はこれか)  先ほど雅宗の頭上から降り注いだ血はこれか。 「い……っってえなあ……もう」  皮膚が裂けて赤く染まった自分の右手を認識した尚志は、痛みと戸惑いに顔を歪めている。 「あー……どうするよこれ。壊れちまった」  加害者である雅宗は、文句を口にする尚志の目の前で何も言わずに突っ立っている。尚志が文句を言うのは正しい。間違ったことではない。けれど雅宗はどうしてか、良かった、と思ってしまった。  安堵した自分を客観的に見て、どうかしてると自嘲するもう一人の自分も確かに存在はしていたのだが。 (もしその手が壊れたなら)  尚志は絵が描けなくなるに違いない。  二度と雅宗を描くことも、他の誰を描くこともしなくなる。  尚志が絵本を出したのだと庵主に教えられたあと、実物を確かめに書店にも出向いた。自分以外の誰かを描いた尚志の絵。それを店頭で目にして、わけのわからない嫉妬を覚えたのは何故だろう。彼に描かれることを恐ろしいと感じながらも、かと言って他の誰をも描いては欲しくないのだ。  何がしたいのか。  描かなければ良いのだ。それが一番だ、と結論づけた。  恐ろしい物と美しい物を描き出す尚志の右手が、壊れてしまえば。漠然と、そう思って、  ……椅子を、投げ付けた。 「たくもー、ちょっと絆創膏ねえの? 雅宗」  機嫌があまり良くなそうに要求してくる尚志の心理状態が良くわからなくて、雅宗はやっと口を開いた。 「何言ってんの。その前に怒ればいいのに。痛いだろ、利き手」 「怒ってんよ、ばぁっか。でも血ィもったいねえからさあ」  出血している手を振って、尚志は傷口をべろりと舐めた。派手に床に飛び散ったそれを見て、「あああわりぃ」などと呟いている。  悪いのは雅宗の方なのに。 「怒ってるように見えない」  折れているようにも、見えなかった。 「こんなんかすり傷だろ。それより雅宗さ、さっきからどっかおかしい。場所が悪いん? 出るか? ……出ような?」  ふと尚志の足元に目を落とした。  流れ出したばかりの血が少しばかり飛んだ、キャンバス。それの枠木が折れていた。壊れてしまった絵の中心にいるのは、他ならぬ雅宗だった。 「ああ……俺一匹、死んだ」 「や、急に予想外のことすっからさあ。うっかり本能で手の方庇っちまった。わりぃ」 「悪く、ないけどね。……なんで謝る」 「とりあえず雅宗捕獲で一旦撤収。ちょい落ち着こうな」  尚志は笑顔を見せて、負傷していない左手を雅宗に向けて差し出した。  その手を取ることに、躊躇いを感じたけれど。 「帰んぜ? って言ってんの」  ぐっと手首を握られて、腕を引き寄せられた。 「泣きてえのはこっちだっての」  軽く尚志に言われて初めて、瞼の縁が濡れているのに気づいた。 「何がしたいんだか言ってみ。俺に出来ることだったら、まあ、努力はすんよ」  5歳も年上の男に向かって、随分生意気な口を利くものだ、と言いそうになって、やめた。 (かすり傷……か)  結構力一杯投げつけたのにな、と雅宗は声もなく苦笑した。  尚志は思いのほか頑丈に出来ているようだった。思いのほか、というより、見たままかもしれないが。  体も心もとても頑丈で逞しくて、多少のことでは壊れない。頼もしい。雅宗とは違う。眠れない、なんてこともきっとない。  絶対に自分が悪いというのにあっさり尚志が見せてくれた笑顔に、雅宗はじわじわと湧いてくる動揺を隠せなかった。  どうして笑うのだ。  痛いのは尚志なのに。 (だけど、もし)  もしも尚志が激しい怒りを見せたなら、あのあと自分がどのような行動を取っていたか、雅宗は責任を持てそうになかった。  理性を切らして、殴りつけて、気を失った父を残したままこの家に火をつけたのだ。居間はその名残だ。修復しないままここで暮らしていたのは、雅宗ただ一人で。  響歌は幻で。  母も幻で。  眠れないのは、ここにいるせい。そう思っていたが結果は違った。どこへ行っても眠れない。自分の影を響歌に置き換え、それに怯えてる。自分の罪を響歌になすりつけて、それで生きてる。  響歌を手放せなかったのは、雅宗自身ではないか。そう意識したら、唐突に自分の命が馬鹿馬鹿しく思えた。

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