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第46話 些細な喧嘩

 アクロのボックス席に腰かけて、常連客のテルミさんの顔をいじっている、ユイの形をした光。その姿を出入り口からすぐに確認して、尚志は足取り重く近づいていった。  どうやらスキンケアの講義中らしい。そもそも男であるテルミの肌はそれなりに肌理が粗く、メイクのノリがあまり良くない。光はたまに常連客相手に肌の手入れやメイクの仕方などを教えてやっているのだが、尚志はその大切な講義中にあっさり割って入った。 「よおテルミさん、今日も綺麗な」  明らかにお世辞なのだが、テルミは嬉しそうに相好を崩した。 「やだあ尚志くん、エッチだけじゃなくてお口も上手なのね」 「――え? 何それ」  誤解を招きそうな科白を口にしたテルミに、光の眉根が少し寄る。この言い方ではまるで尚志とテルミが何かあったかのようだ。 「まあね」 「意外と下のお口もお上手だったりしてえ」 「試すかあ? でもテルミさんネコじゃねえの」 「トラもネコ科なのよ」  うふふ、と低く笑ったテルミに、光の眉間のしわがますます深くなる。しかし尚志は特にフォローも入れず、テルミから光に視線を移した。 「ユイ、それ終わったらこっち来い。焦んなくてていい、飲んでるから」  光が何か返事をする前に、テルミが気さくに遮った。 「あらいいのよお、別に」 「いや、終わったらでいいから」  ひらひら手を振って背中を向け、カウンター席にぽつんと座った尚志は、どこで売っているのかよくわからないセンスの服をきらびやかにまとった悦子ママにスクリュードライバーを注文した。 「ひーくん、何それ」  ごとんと、重圧感のある音を立ててテーブルに置かれたそれに目を向けて、悦子ママが不審げな声を上げる。 「ユイたんへのプレゼント」 「今夜のひーくんは随分と可愛らしいのねえぇ」  ふざけた物言いをした尚志に、グラスを目の前に置きながら悦子ママが笑った。見慣れない人間が見たら多少不気味なその笑顔に、少しだけ笑顔を返す尚志の様子は、心なしかいつもとどこか違う。 「変わったプレゼントなのねえ」 「俺だってこんなん不本意だけど、欲しがったからさ」 「ご機嫌取り?」 「そういうわけじゃねえけど」 「へええ」  オレンジ色のカクテルに口をつけている尚志をにたにたと見つめるママは、やがてノリが悪いのに気づいたのかチェシャ猫の笑みを消した。 「ひーくんの方がご機嫌斜めなのかしら? 今夜は」 「そんなふうに見えんのなら」 「見える見える。じゃあ可愛く拗ねてるひーくんに、ママ特製の玉子焼きを食べさせてあげる。この前テレビの通販で玉子焼き器買ってねえ。これがいいのよ」 「いやいや……スクリュードライバーに玉子焼きはねえよ」  軽く笑った尚志に、ママは「そぅお」などと残念そうに冷蔵庫にかけた手を離した。そんなやりとりをしていたら、いつのまにか光が尚志の隣に来ていた。 「終わったよ」 「そうか。ほら、これ」  ちらりと視線をやり、自分の横に置いてあったものを再度片手で持ち上げ、光の目の前に置く。置かれた物と尚志の姿を見比べて、光は「あー……」と微妙な声を発した。 「これでいいん」 「……うん、そう。だけどでも、」  どこか不機嫌そうな尚志の声音に、光の表情は若干曇る。  そこに置かれていたのは、以前光が欲しいと言ったコンクリートのU字溝で、この空間にはまるで似つかわしくない代物だった。 「重てえのな、これ」 「片手で持ち上げるとかありえないんだけど。ていうか、」 「こんなとこ持ってくんなって?」 「ユイに持って帰れると思う?」 「どうかなあ」 「持てないよ。柴田それ、うちまで運んで?」 「ああいいよ」  相変わらず尚志は不機嫌そうだ。不機嫌を全面に出しているわけではないのだろうが、どこからともなく滲んでくる。何かあったのか探るように尚志を見つめてくる光は、やがて右手の傷痕に気づいたようだった。瘡蓋(かたぶた)が出来て、痛々しい。  つん、とそこに光のあまり男らしくない指先が触れた。 「怪我?」 「かすり傷」 「痣んなってる。それが機嫌悪そうな原因? それとも、この前のことまだ怒ってるとか」  この前のこと、と言われて尚志は一瞬停止した。『勃たないなら帰れ事件』は尚志の中であまり芳しくない出来事だったが、言われるまでそんなことは忘れていた。尚志の頭の中は今、それどころではないのだ。 「別に怒ってねえし。――なあママ、もう一杯。なんかうまいの」  光から目を逸らしてカウンターの中にやると、悦子ママがのんびり「はいはあい」と返事をした。 「嘘だ、柴田怒ってるよ」 「怒ってねえって」 「だったらなんでさっきテルミさんにあんなこと」 「はあ? 何が」 「何がって、……柴田」  開き直っているのか素なのかわからない尚志のリアクションに、名前を呼んだきり光はしばらく黙り込んだ。 「黙んなよ」 「……だから……下の口がどうとか」 「挨拶代りだろあんな軽口。本気にすんなって」  少し残っていたスクリュードライバーを飲み干して、空のグラスを奥に返す。帰るにはいいタイミングだった。 「ね、柴田……お酒飲むのはもうやめて、帰ろっか?」 「ちょっとユイちゃあん、もう一杯くらい商売させてちょうだい」  光の営業妨害にも聞こえる発言に、悦子ママがすかさずモスコミュールをすっと差し出した。今更キャンセルするわけにもいかないし、尚志はそれを無言で受け取る。 「これ飲んだら帰るわ。ちょっと待ってろって」 「……アルコール弱いくせに」 「ああなんだって?」 「酔っ払ってるんだよ! 顔が!」  声を荒げた光に、周囲の視線が集まる。  ここでの光は、可愛い可愛いお人形のようなユイなのだ。こんな口調を他の誰にも向けたりしない。悦子ママも少しびっくりして目を瞬かせた。 「ユイちゃん、怒鳴るとせっかくの可愛いお顔が台無しよ」 「だってママ」  ぐだぐだになってきた。尚志は味わうなんてことも出来ずなるべく早めにそれを食道に流し込み、席を立つ。 「おら、帰んぞユイ」 「……光で、いいよ」  小さく呟いた光を数秒見つめた尚志は、けれどそのことに対し何のコメントもなかった。  やはり怒っているのではないか、と光が思っても仕方ないかもしれない。 「柴田、歩くの速い」  重たい荷物を片手に持っているというのに、尚志の足取りは速く、どんどん光を置いていってしまう。声をかけられて初めて気づいたように、尚志の足が停止した。 「あー……わりぃ」 「それ重いんじゃない? 右手痛そうなのに」 「こんなんオ□ナイン塗っときゃ治る」 「何やって怪我したの? ダンベルでも落っことした?」 「――いや、」  意味ありげな沈黙のあとに、尚志は短く答えてU字溝を左手に持ち替えた。ずっと同じ手で持っているとさすがに疲れるようだ。  光は少し歩調を緩めて歩き出した尚志の前に、黒エナメルの靴の足でたかたかと回り込んで、通せんぼをするように立ち止まる。 「……んだよ? 帰ろうぜ?」 「さっきさあ、テルミさんに、」 「? うん」 「先生と柴田どっちが好きなのって聞かれた」  光が付き合っているもう一人の男のことを、テルミも知っているはずだった。 「ふうん、それで?」 「柴田は友達って答えちゃったよ、僕」 「…………あそう。ほら、ちゃきちゃき歩く。とっととこれおまえんちに届けて、俺帰るわ」  酔いのせいか若干なりを潜めていた尚志の不機嫌が、じわりと浮かんできた。立ち止っている光の細い腕を掴んで、引っ張るように再び歩き出す。 「柴田、痛い」 「わりぃ」 「怒った?」 「怒ってねえ。俺とおまえはダチなんだろ? 知ってるよ。一回も、好きって言わねえもんなおまえ」  単調に呟いた尚志は、光の腕を解放した途端、その右手を路上に向けて唐突に挙げた。 「ちょ、柴田、何タクシー捕まえてんの」 「一刻も早く帰りてえ」  緩やかに停止したタクシーに光とU字溝を押し込むと、何故か尚志は乗り込まず車体から離れようとした。タクシーを降りたあとは自力で部屋まで重い荷物を運べよ、という尚志にしてみれば幾分冷たいあしらいだったのだが、願いは叶わず、予想外にもその逞しい体は光によって車内に引っ張り込まれた。 「何別行動取ってんだよ、ちゃんと部屋まで運んでよ」  小さく苛立たしげな舌打ちが聞こえても、光はその手を離したりしなかった。 「……ったく、非力だなあ光はよ」 「柴田がいるから、いいんだよ」  仕方なく乗ってやる、という表情を浮かべたまま、タクシーのドアが静かに閉まった。

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