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第47話 インソムニア
うさぎのケージ付近に重たいU字溝を設置するなり、尚志は入ってきたばかりのアパートの玄関へ足を向けた。酔い醒ましの水をグラスに注いでいた光は、スニーカーのつま先をこんこんやっている男に気づいて胡乱な視線を投げる。
「そんな速攻帰らなくても」
「いや帰るわ。勃ちそうにないし」
「……うわー、根に持ってるんだ」
「べっつに」
振り向きもせずドアノブを回そうとしている尚志に、グラスを持った光が慌てて走り寄って帰るのを引き留めた。
「柴田、謝るから」
「何を」
「僕にも色々事情があってさ。……だから、あの時はちょっと、」
「色々って?」
尚志はようやく手首をきゅっと掴んでいる光を見た。
なんだか必死に見えた。ドアノブから手を放した尚志から軽く溜息が洩れ、再びスニーカーが足から乱雑に抜け落ちる。
「……水、貰う。着換えろよ」
光の手に握られたグラスを受け取り、一気に飲み干す。
なんとなく、雅宗と再会した夜を思い出した。
あの時もこんな風に酔っ払って水を貰った。
眠れないならと言って、薬を飲まされた。よくわからない、夢を、見た。
ここのところずっと、連日。
夜中尚志が眠っていると、雅宗がやってくる。眠れないと言って。
彼がおかしくなったあの日からずっとだ。
「君に出来ることならするってほんと?」
「――ん、ああ」
ベッドで眠りの中にいた尚志の上に乗ってきた雅宗は、囁くようにその睡眠を妨げる。声をかけられてもなかなか目を開けることが出来ないでいると、薄い掛け布団をめくって中に入ってくる。
夏なのに、冷えた体温。少し気持ちが良い。
ピアスの耳元に、吐息がかかった。
「じゃあさあ、尚志……」
「……んー」
今する話だろうか、とはっきりしない頭で思う。けれど次の科白で、眠たい目をはっきり見開いた。
「絵を描くのはやめにしないか?」
天気の話をするような口調で言われたので、数秒何を言われたのか理解出来なかった。
「ね」
「……ね、って言われても」
「描かなくていいよ、尚志」
どうしてそんなことを言うのだろう、と尚志は沈黙で返した。
雅宗にとっては多分、絵を描くことに意味などないのだろう。だから簡単にそんな難しいことを言えるのだ、きっと。そう思った。思ったが、軽い気持ちで承諾するわけにもいかない。
「描かなくていいよ」
ごろんと寝返りを打ち、自分の上にいる雅宗の体を抱き込む。どこか虚ろな視線はこんな夜中で眠いからだろうかとも思ったが、そうではなかった。
「尚志の腕は逞しいな」
「抱かれてえだろ?」
「……まだ、したことないね。そういえば。なんでかな」
「なんでだろな。やってみる?」
話が逸れてゆくのは、雅宗が振ってきた話題に触れたくないからだ。けれど自分が提示した案をこのままスルーするはずもなく、雅宗は再度同じような科白を呟く。
「俺を抱いてもいいけど、絵は描くなよ」
「あんたが……やだってんなら、あんたのことはもう描かないし」
「違う。――俺だけじゃなくて、全部」
濡れた目が近づいてきて、相変わらず視線がぶつかりまくりのキスをされた。その視線がどうにも痛々しく、尚志は思わず瞼を下ろす。
「それは無理」
「昼間の言葉、嘘だった?」
温かい感触。尚志から承諾を引き出そうとするかのように、優しく舌を絡め取られる。けれどけして頷いたりは出来ない。
それは、無理だ。
「別に嘘じゃねえけど」
「じゃあ、」
「出来ることならって言ったんだよ、俺はさ。雅宗の言ってるそれは、出来る出来ないで言えば、出来ない」
ようやく雅宗は唇を離した。
ゆっくりと目を開けると、どこか悲しそうにも見える男が映った。
どうしてそんな顔をするのか、わからなかった。
眠れないと言って、毎晩尚志の眠りを妨げる。
例の睡眠薬はどうしたのだと聞いても、効かない、と笑う。
雅宗に構わず眠ろうとしても、起こされる。
何がしたいのだ。どうして欲しいのだ。
「描かなくていいよ」
何度も囁かれる。催眠術でもかけるかのように、眠っている時にいつも。
「無理だって」
返事はいつも同じだ。雅宗がどんなにそれを望んでも、わかったとは言えない。
尚志にとって描くことは生活の一部であり、生きてゆく上で必要なものだ。もしこの右手に負った怪我が致命的なものであったとしても、諦めたくはない。諦められるものではない。
「……ふうん。どんくらい無理?」
「くどい」
あまりの繰り返しで強くなった口調に雅宗は一瞬停止して、何故か笑った。なんとなく以前にも同じような会話をしたような気になって、尚志も妙な心持ちになる。
(なんだっけ……)
思い出せなかった。
くどいと言ったあと、雅宗は「わかったよ」と苦笑いして、その話題からようやく離れてくれた。よくわからないが、理解してくれたようなのでほっとした。
こんなにも尚志に無理を強いようとしている男のことを、どうして突っぱねることが出来ないでいるのだろう。一度尚志に黙って消えてしまった、ひどい男なのに。
尚志に血を流させた、張本人なのに。
(ああもう、俺って)
それすらも許容してしまうのか、この男には。そう自覚したら、睡眠不足の頭が混乱した。
「……んで、ねみぃのよ、俺」
うさぎのユイが、貰ったばかりのU字溝にはまって遊んでいるのを尻目に、尚志は不機嫌そうに大あくびをした。睡眠不足が不機嫌の原因らしい。毎晩のようにあんなふうにされたら、こちらまで不眠症だ。
「ふーん」
「んだよ?」
「したんだ? 結局?」
「――ああ、そこにひっかかるわけ。光くんは」
「気になるじゃん」
「友達ーとか言ってるくせによ」
酔いもだいぶ醒めてきたが、やはり睡魔には勝てないらしい尚志は、ごろんと横になり不貞腐れたような声を発した。けれど自覚してしまった以上、あまり光を責める気にもなれないでいる。
(どうしたい、俺)
光はあえて「友達」という表現をしているのだろうか。尚志の考えていることを見透かして、雅宗のところにでもどこにでも行けと、暗に告げているのか。
「俺にはおまえのことよくわかんねえな。……ユイは、おまえは俺のこと好きだって断言してた」
「――なっ」
予測していなかった言葉をぶつけられた光は、びっくりした顔で硬直する。その顔はみるみる紅潮し、金魚のように口をぱくぱくさせていたが、急に立ち上がってU字溝からユイを抱き上げるともふもふし始めた。
尚志が言う「ユイ」は、光の別人格のユイだ。以前光の知らないところで、尚志にそんなことを言っていたのを思い出したのだが、本当のところを本人の口からは聞いていない。当の光は否定も肯定もせず、わけのわからない行動を取っている。
「光くーん、何その行動。……てか、抱っこ出来んじゃん」
「びっくりした」
「はあ……?」
びっくりするとうさぎを抱っこ出来るのか、と不思議な目を向けていたら、すぐにユイがその腕からじたばた逃げ出してしまった。本当にびっくりした勢いでの行動らしい。光はそれを追うことはせず、なんだか深呼吸している。
「なんなんだよもう」
「と、とにかく」
「ああ、うん?」
「僕にも色々あって、って言っただろう」
「ああ、それ何よ」
「柴田は友達じゃないといけないから、ユイがなんと言おうと僕は認めたりしないの。そんだけ」
わけがわからなかった。
「だからもう、そのことについて僕に話を振るのはやめてほしい」
尚志の眉間に深いしわが寄ったが、話したくないのを無理に話させるのは趣味ではなかった。
「気が向いたら言えよ」
光はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「……おう」
「とりあえず、柴田と体の関係を持つの、やめようかなって、思ったり。……どうかな……」
寝転がっている尚志にタオルケットを掛けた光に、なんて返事をしたら一番良いのかわからなかった。
「…………そっか……わかった」
不満そうな声に聞こえたろうか。
けれど心のどこかでは安心していたのかも知れない。こんな曖昧な立場に自分がいる以上、もしかしたら光を傷つけることになるのであれば、一旦この関係はやめた方が良かった。
自分にそう言い聞かせた。
柔らかい感触に、自然と瞼が落ちた。
雅宗はどうしているだろう。
今夜も、眠れないと言っているのだろうか。
自分はどうしてここにいるのだろう。
彼の傍にいるべきではないのか、と頭を掠めたが、睡魔には勝てなかった。一晩くらい、ゆっくり眠らせてほしかった。
「だけどそれでも……、柴田は」
眠りに落ちたあと光が何か言ったような気がしたが、意味を考える余裕がなかった。
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