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第48話 庵主

 いつにも増して閑散としたちろり庵の片隅で、尚志は厨房で仕込みをやっているらしい庵主の横顔を描いている。  窓から外を見れば眩しい陽射し。手元には水滴の浮いたグラスが一つ。尚志の傍に雅宗はいない。絵を描くなと言った彼は今既に日本におらず、その現状に寂しさと共に安堵を覚えていた。一度荷物を整理して、また戻ってくる予定だ。  雅宗を、あの家に一人にしておくわけには行かなかった。かと言ってずっと尚志の家にいるのも気が引けると言った彼は、会社の斡旋で既に部屋を決めた。家をどうするのかと聞いたら、落ち着いたら取り壊すとのことだった。  尚志としてはずっといても良かったが、尚志だけの家でもない。いい大人の男がずっと人の家に間借りしているのもどうかと思う、というのが雅宗の言い分だった。勿論それに異を唱える気はない。  そんなことを考えながら紙の上で鉛筆を動かしていた尚志の視線に、庵主がちらりと視線を返した。穏やかな目が合い、ふと湧いた疑問が口を突いて出る。 「なー庵主さんさ」 「なんだい、何か注文でもしてくれるのかい」 「……や、コーヒー一杯で長居して悪いと思ってるけど。んじゃ……なんか頼もうかなあ」 「いいんだよ。人がいないより、いた方がお客も入ってくるからね」  他に客入ってねえけど、と言おうとして、飲み込む。 「うんでも、悪ぃからなんか頼む。庵主さんのチョイスでいいから」  尚志は結構人に選んで貰った物を口にするのが好きだった。考えるのが面倒、というよりも、相手が何を選んでくれるのかが楽しみだし、期せずして知らない味に出会える。 「ううんじゃあねえ……柴田くん、これなんだかわかるかい」  しばし考えてから庵主が取り出したのは、ピンポン玉ほどの大きさの、丸い何かが詰まった小瓶だった。尚志は提示された物をじっと見つめたが、良くわからない。 「何それ。食いもん?」 「茶葉が丸まってるんだよ。正体はジャスミン茶でね。でも見た目が可愛いだろう。これでいいかい」  軽く頷くと、庵主はやかんを火にかけた。お茶が出てくるまで少し時間がかかりそうだ。それから尚志はまた思い出したように、先ほどの疑問を続ける。 「庵主さんて昔坊主だったんだろ? なんでやめたん」  何気ない一言に、人当たりの良い笑顔が急に消えた庵主は不自然に動きを止め、黙り込んで尚志を凝視した。  聞いてはいけないことだったか。  庵主は頭に巻いた手拭いを片手で撫でつけ、緩んでもいないのに結び目をぎゅっと結び直した。結び直す指先が、ほんの少しだけぶれたような気がした。動揺しているのだろうかとも思ったが、あまり顔には出ていなかった。  何か言うのを待っていたら、かなりの間があってやっとリアクションが返ってきた。 「――それ岸くんが言ってたのかい」  声がいつもより固かった。 「え……ああ、そうだけど、……あ、これ聞いたら駄、」  駄目だったのか、と言いかけた時、火にかけていたやかんがぴーぴーと音を立て始めた。思いの外沸騰するのが早かった。その湯気に我に返ったのか、やがて困ったような笑みを浮かべた庵主が「そうかい」と呟いた。  やかんの音が止まった。 「これまで私と、そんな話を改めてしたことはないんだけどねえ。わかってたんだね、そうか」  意味が良くわからなかった。  庵主は丸く結ばれたジャスミン茶の球を透明な急須にぽとりと落とし、一度湯を注いだものを捨ててから再び注ぎ直した。 「それってなんで捨てるん」 「洗茶って言ってね。一度茶葉を綺麗にするっていうか、そういう作業をね。仕入れた袋には洗茶しろって書いてなかったんだが、つい癖でね。これは少しすると花が開くよ」  先刻の奇妙な間が嘘のように普通の態度で、盆に茶碗と急須を載せて、庵主が厨房から出てきた。 「暑いからって冷たい物ばかり飲んでいるのは、体に良くないからね。……どれ、描けたのかい」  甚兵衛を着た男は、そう言って尚志の目の前の空いた席にどすんと腰を下ろした。スケッチブックの中にはざっくりと描かれた庵主が横を向いている。味のある中年の男の顔だった。 「庵主さん描くの、なんか好きでさ」 「それは光栄だね」 「描かれるのやだったら言ってくれよ」 「別に嫌じゃないから、好きに描いてくれていいんだよ。――嫌がる人、いるのかい」  尚志は微妙な表情になり、スケッチブックに顔を向ける。  嫌がる人間もいる。雅宗がそうだ。  自分自身だけでなく、すべてを否定する。 「ああほら、見てごらん。開いてきた」 「――んん?」  指で示された先を見ると、先ほど急須に沈んだジャスミン茶の球が、ふわりと開いていた。初めて見る光景だった。 「おもしれえのな」 「岸くんの心は、君に開いてるかい」 「……は? んー、どうかな。わかんね」 「あの子はうわべばっかり調子良くて、なかなか他人に、本当には心を開かないんだよ」  いつのまにか茶葉の話が雅宗の話にすり変わっていた。不思議そうに庵主の表情を読み取ろうとするが、あまり見えない。  ジャスミン茶を茶碗に注ぎながら、庵主は鼻の頭を一度掻いてから視線を外して軽く嘆息した。 「もしかして庵主さんて、雅宗となんかあるん?」  伊達に遊んでないからな、と以前尚志に言ったのを思い出し、よもや庵主とも何かしたのでは、などと良からぬ想像をした。  しかし庵主はそのことについて答えたりせず、尚志の手元に茶碗を差し出した。 「昔私は、これでもサラリーマンをやっていてね」 「……はあ」  唐突な振りに、尚志は曖昧な返事を小さく洩らす。 「色々あってちょっと俗世間から離れてみたくなって、……そういうことってないかい。普通の会社でこつこつやってたのにある日出家するって、離婚して家を出てみたりしてね。家族には迷惑かけたと、今は後悔しかないんだが、当時の私にはあそこにいられない耐え難い理由があった」 「俺にはあんま、そういうのねえけど……」 「まあ柴田くんは若いから。まだわからないかもしれないね。結局坊さんの世界も色々大変なのは、変わりないんだけどね。そして今は、袈裟脱いでこうやってここに落ち着いてる。半端だなあと、自分で思うよ」 「や、いんじゃねえの。失敗してもとりあえずやってみたいことにチャレンジすんのはさ」  庵主の事情を把握しているわけではないが、自分がやりたいと思ったことを実行する人間を、尚志は嫌いではない。出してくれたジャスミン茶に顔を近づけると、ふわりと良い香りが鼻をくすぐった。 「柴田くんはやりたいことやってるかい。……愚問か。やっているだろうね、きっと」 「だって人生一度っきりじゃん?」 「そうだねえ……」  ぽつり呟いて、庵主は遠くを見るような目をした。  過去を思い出しているような目だと思った。 「以前、死にかけたことがあってね」  厨房に戻ろうとした庵主を、傍で描きたいからと引き止めたところ、しばらく黙って座っていた彼がまた口を開いた。 「頭をしたたか殴られて、……そのあと火事になって。火事になったお陰で救助されて、今生きてるんだけどね。何が幸いするか、わからないものだなあ」  庵主は頭に巻いていた手拭いを外して、その痕跡を見せてくれた。痛々しい傷痕が坊主頭に残されている。 「それが出家しようとか思ったきっかけ?」 「いや、それはやめるきっかけでね。出家しようと思ったのは、娘を亡くしてしまったからだよ。神仏にすがりたくなったんだろうなあ」 「……娘さん、いたんだ」 「元々あの子は色々と弱くてね。だけど勝手な言い分だ。家族を置き去りにして、自分だけ勝手に現実から逃げてしまったんだから」  なんとなく口を挟むのを憚られて、尚志は黙った。 「それでその時は既に修行中の身だったんだが、離婚したかみさんが、別れてしばらくして……亡くなったって聞いてなあ。久々に家を訪れたことがあってね。まあそこで、なんだかんだトラブルがあって、自分も死にかけたのを機に、坊さんやってることにも疑問を覚えて、……結局やめてしまったんだよ。誰も救えない自分なんかがやれる仕事じゃないなと悟って」  庵主は片頬だけで自嘲気味に笑った。 「なんだかんだって」 「残された息子とちょっとね。これ以上はやめておこう」  なんだかやけに重たい話になってしまったか、庵主の口調は静かだった。  誰かの笑顔に似ていると、一瞬脳裏を過る。誰だっけと考えて、不意に雅宗が浮かんだ。  今頃、何をしているだろうか。 「結局息子とはそのままになったんだが、ずっと気になっていて……ここに店を構えたんだよ」  もしかして目の前で淡々と話すこの男は、思いもよらぬことを言い出そうとしているのではないかと、尚志は妙な不安に駆られた。 「もしかして庵主さんさあ……」  どこか居心地の悪い言葉に区切りをつけようと、ぼんやり浮かんだ疑問を思い切って口にしようとしたら、庵主は心底困ったように煙草を取り出して火を点けた。 「岸くんは、覚えていないみたいだよ。少なくとも私に接する態度は、覚えていないように見える」  最後まで言わずとも、尚志の考えは庵主に伝わったようだった。 「言わなくていいからね。私たちは多分、もう親子ではないだろうから」  覚えていないのではなく、あえて忘れているのかもしれないね、と付け加え、坊主頭の男は深く吸い込んだ紫煙をだるそうに吐き出した。  頭が混乱した。

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