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第6章 郭公の夢路 2.それは難破船ではない
細い道の左右に落葉松の林が続いている。鉛筆を連想する黒く細い幹に、あざやかな緑の葉が強いコントラストをなしている。一カ月前に訪れたときより森の緑は濃く深くなり、高原の空気の中でつややかに輝いている。
叶が運転する車は舗装された道路を離れ、小石で路肩を縁取られた土の道を十メートルばかり進んでから、木立に囲まれた空き地に止まった。
「で、これがその、物置がわりになっていた別荘?」
一有は助手席のシートベルトを外しながら、フロントガラスの先をにらむ。うっそうと茂った緑の木立の奥に暗い青色の壁と斜めに下がる黒い屋根がみえる。
「全部が全部物置ってわけじゃないだろうが、これが一軒目だ」
「全部で三軒だったか?」
「そうだ。この十年はうちの管理人が月いちで点検補修をやっていた。このあたりは俺もあまり来たことがない」
叶はダッシュボードに広げた地図を指でたどった。地図といっても、鷲尾崎家の別荘村の簡略図で、今ふたりがいるのはその北のはずれである。先月一有が泊まったコテージや、平良の別荘からはかなり離れている。
「さっきの道も自転車で走ったことはあるが、途中に警備がいて、森に入ろうとすると怒られた記憶がある。当時はちょくちょく来ていたんだろう。表立った役職にはなくても、政界では何かと必要とされていた方だったからな……」
「そんな重鎮に、いつから鷲尾崎の別荘を貸していたんだ?」
「戦前からと聞いてる。三軒も使うようになったのは戦時中からだそうだ。都心の屋敷にあった蔵書や骨董を桐箱に入れて持ちこんだ。空襲で焼かないためだな」
「で、そのまま置きっぱなし?」
「平良の話だと、昔は入れたり出したりしていたようだが……ここの気候はもともと、蔵書の保管には向いてない。途中で先方に依頼されて、何度か改修もしたらしい。湿気対策だな。平良も先代から聞いただけで直接のやりとりはしていないから、どこにあるかは実際に見てみないとわからないそうだ」
「で、その中に鷲尾崎家のお宝も混じってるってことだろ?」
「目録によれば、そうだ」
ふたりは同時に車を降りた。路肩は落葉松の枯葉がつもってふかふかしている。木立のあいだで小鳥が鳴き、風が木の葉をそよがせた。一有は叶のあとに続きながら、鷲尾崎平良の陽気な声を思い出す。
「キョウから九州の先生の訃報は聞いたかい? あの方は戦前からうちの別荘を倉庫代わりに使われていてね。この十年は正式に管理を託されていたんだが、今後は先方の管財人に引き渡すことになった」
佐井銀星米寿を祝うパーティで、芝生の庭を駆けまわる子供たちを眺めながら、平良はしごく上機嫌だった。しかしそのあとに続いた要請は、一有が思いもしないものだった。
「それで先代が預かっていた目録をざっとみたら、どうもうちの貸与品が紛れているようなんだ。早いところ回収したいんだが、内容がわかる人間じゃないと頼めない。それでキョウに探してもらおうと思ったんだが、イチウ君にも同行してもらえないかと思ってね……」
「……探し物はなんですか?」
「いちばん重要なのは、鷲尾崎と縁の深い歌人が戦前に残した草稿と日記だ。貸しっぱなしの蔵書はほかにもあるが、たぶんその中に紛れているんだろう。桐箱をあけてひとつひとつ確認しなくてはならない」
話の内容はわかったものの、一有はいまひとつ納得していなかった。
「でもどうして俺に? 短歌なんてさっぱりわかりませんよ」
「きみはキョウと、聖騎士学園以来のバディじゃないか。それにご両親は海で宝探しをしていたんだろう?」
「難破船の調査をしていただけです」
「いやいや、きみはきっとご両親の才能を受け継いでいるさ。それにキョウは怠け者なんだ。餌がないとこんなことはしない」
「エサ?」
ふいに叶が割って入った。
「ちがう、要は平良の趣味だからだ。蔵書にしろ草稿にしろ、査定して価格がつくようなものじゃない。はるばる別荘村まで行って探すのかといっただけだ」
「趣味とはひどいな、キョウ。未笹はたしかに存命時はあまり評価されなかった。時代が早すぎたんだ。しかし鷲尾崎家にとっては重要な人物だし、我々の歌会がこうして続いているのも――」
叶は仏頂面でまた平良に割りこんだ。
「ああ、それは知ってる」
「だからこそうかつに処分されないようにしなくては」
ふたりのやりとりを聞きながら、一有はすこし愉快な気分になっていた。聖騎士学園時代の叶は、書道は好きなくせに短歌は苦手だった。とはいえ書や詩歌の教養がもともとない一有にしてみれば、叶には「苦手」といえるくらいの素養があるということになるし、親類には宇田川里琴という有名な現代歌人もいる。
叶は一有の考えを読んだように、ぼそっとつぶやいた。
「リコなら喜んで引き受けそうなのに」
「いや、キョウに頼めというのはまさに彼の勧めでね。イチウ君に手伝ってもらえばどうかと思ったのは私の方だが」
「まったく、リコのやつ――」
「わかりました。やりますよ」
一有は叶をさえぎっていった。平良の表情がさらに明るくなる。
「お、そうか! ありがとう」
「要するに俺は桐箱だの家具だのを動かして力仕事をやって、キョウはその本や日記を調べるってことですね?」
「その通り。キョウが気づかないものに気がつくかもしれない。ただ、一日では終わらないと思うんだ。泊まりこみで――一回ですめばいいが。ああ、泊まるのはもちろんうちの山荘を使ってくれ」
というわけで、できるだけ急いでほしいという平良の要請もあって、藤野谷家のパーティから一週間後、一有はまたも鷲尾崎家の別荘村を訪れている。
今回は叶の車に同乗することになった。叶はいまひとつうかない顔だったが、一有はちょっとした小旅行気分で、別荘村の入口の守衛が五月と同じように叶を様づけで呼んだときは、思わず笑いをかみ殺してしまった。
今回は翌日に仕事が控えているわけでもないから、という気楽さもあっただろう。五月のちょっとした波乱を乗り越えて、今の一有は叶との関係に新しい見方をするようになっていたから、というのもある。加えてあの日、叶が外したときを見計らって、平良から聞いた話も一有の今の気分に一役買っていた。
もっとも「イチウ君、あいつの独身宣言について、詳しく聞いたことがあるかね?」と平良がいったときは、思わずどきりとしたのだが。
「独身――いえ?」
「先代が亡くなって、相続が終わったあとのことだよ。当時キョウが誰ともつきあっていないとみて、結婚をもちかけてくる人間が急増したんだ。あいつは閉口したのか、ことあるごとに独身主義を宣言するようになった」
「……」
「しかしああいうのはいったんおさまっても、しばらくするとまた発生してくるものなんだ。で、キョウの奴どうしたと思う? 遊び人のふりをしようとしたんだ。柄にもなく」
「……柄にもなく――?」
つい聞き返してしまった一有を、平良は妙に愉快そうな顔でみた。
「あたりまえだろう、あいつはイチウ君のようにスマートでも器用でもないんだ。まあ、私も人のことはいえないが。とにかく、ちょっと遊んでみるなんてことはキョウには無理なのさ。良くも悪くも頑固でしつこいのが取り柄だ。おっと、これは長所とはいえないか」
そこで叶が戻ってきたので、平良は素知らぬ顔をしてちがう話をはじめ、一有もそれ以上のことはたずねなかった。
紺色のブルゾンを着た背中が一有の前をいく。埃まみれの作業になることをみこしてか、今日の叶はめずらしくデニムを履いている。デニム姿の叶をみるのは大学以来だったが、こんな格好をするとあまり変わらないな、とも思った。一有はコットンパンツにシャツ、ジャケットというラフな休日スタイルだが、念のためジャージの上下を持参した。必要なら着替えればいいだろう。
この別荘が建てられたのは七十年以上前らしいが、何度も改修を繰り返したせいか、見た目はそんなに古びた様子もなく、何より、別荘にしてはなかなか頑丈な印象の建物だった。叶が玄関ドアを開けると、古い木の匂いが一有の鼻をつく。
中はしんと静まり返っていた。薄暗い中に白布をかけられた家具や、積み上げた箱の山がみえる。
「あれか?」
一有が指さすと、叶の眉がすこし下がった。
「……だな」
「これがあと二軒?」
「運が良ければここだけで終わりだ」
「じゃ、おまえがツイてるのを願うよ」
一有は叶の背中を押した。
「ほら、さっさと取りかかるぞ」
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