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十三話:『心が、此処ではないどこかに旅立ちかけていた』

 地獄だ。  そうとしか思えない。  アクセルとブレーキを踏むたびに、車が揺れる。  ありえない。  錦は若狭と暮らして四年の間、彼の運転する車で移動したことは無い。  送迎含む移動手段は彼の秘書が運転する車かタクシーを利用している。  だから、若狭が運転する車に乗るのは初めてだが――これは酷い。  予想以上に酷過ぎる。  許されるなら記憶を一時的に失いたいと思う程酷かった。  生きた心地がしないとは、まさに現在のこの状況だ。  何故かグレゴリオ聖歌を結構な音量で流しながら、爆走する赤色灯付きのメルセデスの助手席で錦の意識は冗談ではなく何度か吹っ飛んだ。  己に厳格で現実逃避とは卑怯者がする事だと豪語する錦の心が、此処ではないどこかに旅立ちかけていた。  それ程に受け入れがたい行為が運転席の若狭により現在進行形で進んでいるのだ。  メルセデスの乗り心地だが、もっと快適であった記憶がある。  安定性が高く路面からの振動も騒音も無く滑らかに走行していた。  ボディのクラスにより違いがあるのだろうが、若狭を寵愛している朝比奈家当主なら、それなりのランクを選ぶだろう。 「先生、因みにこの車のクラスは」  錦が過去に乗車したメルセデスはCクラスだった。  赤信号に切り替わる前で、さらにアクセルを踏み込み次の信号を渡り切る。 「Sと聞いてますが何か?」  ――……何と言う事だ。  Sクラスと聞き絶望した。  最上級ラインではないか。 「何故こんな扱いでこんな運転なんですか」  つまりノイズもハーシュネスも苦行と思えるほどに体に響くと言う事は、明らかに若狭の運転操作が問題なのだ。 「こんな運転が如何いう意味かは分かりませんけれど、車により扱いを変える事はありません。何の意味があるのです」  豚に真珠、猫に小判、牛に麝香と言う言葉が脳内をかけるが、一応価値は理解したうえでの扱いなのでニュアンスが異なる。  気を紛らわそうとあれこれと考えるが、振動により意識が助手席に居る苦行へ帰っていく。  おまけに何度か舌を噛みかけた。  ヘルメットを被されてるので、頭も重いし何だかぐらぐらする。  急カーブなど特に最悪だ。  運転ではないこれは蛮行そのものだ。  減速をせずにハンドルを切る度に、次の瞬間の事故を何度も予想し心臓が止まるかと思った。  十字路に差し掛かるが目の前の右折車を避け加速したまま直進し、前方に走るタクシーを追い越しさらにもう一台追い抜き走り去る。  カーブの都度、タイヤとアスファルトの耳障りな摩擦音に酷くストレスを感じる。  若狭が事故をするのは自業自得だが、他の誰かを巻き込むのだけは許される事ではない。  みだりな車線変更、あきらかな制限速度の超過、無謀な追い越し等如何考えても悪質極まりない。  乗り心地は最悪だが、これだけの危険運転をしていながらも、事故や器物破損を一度もしていないことが奇跡と言えた。  中央分離帯のコーナーブロックをターンするとき、後輪あたりをぶつけると思ったが、ぶつかりそうでぶつからず、何度か曲線部誘導標や車線分離標にぶつかりへし折る位は覚悟していたが不思議と掠りもせず、正面衝突、側面衝突もぎりぎり回避し、それでも、ほぼ同スピードで走り続ける当たり認めたくはないがそれなりの運転技術はあるのかもしれない。  赤色回転灯の効果か、運転の仕方からして危険人物と判断されたのか周囲の人や車が避けてくれた事も事故を防ぐ一助となったのだろう。  しかし、そんな暴走車の存在を許す程世の中は甘くはない。

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