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十五話:『発炎筒を使うのは初めてです』
「発炎筒を使うのは初めてです」
「え? 発炎筒……?」
そして窓を半分ほど下し、ハンドルから一瞬だけ両手を離して白い蓋の底、擦り薬で着火させ勢いよく窓から後方に向かい投げ放つ。
「何をしてるんだ!!」
慌てて後方を見ようとするが、ヘルメットが重くて首をひねることが出来ない。
「貴方は何て事をするんだっ」
「発炎筒は緊急事態に使用するのだから間違いないですよ。ねぇ佐々木」
「……えぇ。若狭様が逮捕される緊急事態を考えれば……」
歯切れが悪い。
破裂しそうな程に心臓が脈打つ。
胸を押さえながら、サイドミラーで確認してみれば、炎と煙の前でパトカーが一時停止しているではないか。
警察官が車両から飛び出す姿に漠然と「あぁ、無事で良かった」などと考えた。
どんどん遠ざかるそれを見ながら、頭の中が白くなる。
遠く聞こえるグレゴリオ聖歌の美しく静謐な調べが、非現実的なものに思えて来た。
何てことを仕出かしたのか。
新たに公務執行妨害罪が加わってしまった。
何故この短時間でこれだけの罪を犯したのか。
もう駄目だ。
海輝の所に行くだけだったのに、俺は穢れてしまった。
錦の意識が地獄と現世を往復しているうちに、目的地である外資系 ホテル『ジャルダン・デザンジュ』が見えて来た。
我ながら現金な物で、現としていた意識が浮上し海輝に会えると言う希望に泣きそうになった。
更紗を誘拐した事と逢瀬を強行したことを怒っていたのだが、若狭の危険運転の所為で怒りが全て削り取られた。
命の危険性を前に、愛する男に会えることが何者にも代えがたい幸福に思えた。
ようするに死線を潜り、精神的苦痛と極度の緊張による肉体的疲労が限界を超えた事により、感情の鎮圧もしくは麻痺状態に陥ったのだ。
しかし時間は変わることなく流れているのだ。
状況が好転することは無く寧ろ悪化の一途をたどる。
錦の望まぬ方へ、容赦なく進んでいく。
エントランスまで一キロを切り凄まじい勢いで迫っていく。
スキール音が耳鳴りの様に響く。
運転席の悪魔はそのままスピードを緩めず、ハンドルを大きく切りホテルのエントランスへ車を正面から突っ込んでいった。
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