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十六話:『想像を絶するほど酷かった』

アクセルとブレーキを間違えたのかと疑った所で、 錦の思考は完全に止まった。  何もかもがスローモーションだ。  先生、と最後まで言葉は結ばず唇から空気が漏れるだけに終わる。  熱を持つように、頭がぼうっとする。  停止した思考では何も考えられない。  視覚と脳の情報伝達に大きな時間差がある様だ。  やけに緩やかに世界が展開する。  ――四メートル、三メートル。  ドアマンが慌てて逃げる。  眼前に迫るメインエントランスのドア。  ――二メートル、一メートル……。  響く、悲鳴。  激突し、宙を舞い散る硝子破片が煌めく。  雷鳴にも似た破裂音と共に自動ドアとはめ込み式窓を打ち破り、悲鳴と共に車はロビーに侵入した。  加速した車は急ブレーキをかけた事により大きく横滑りする。  若狭がさらにハンドルを切る。  目の前を横切る暴走車に、ベルスタッフが腰を抜かしたようにフロアにへたり込んだ。  藤の花を思わせるシャンデリアが眩しく感じる。  幾重にも吊るされたクリスタル装飾が反射し、降り注ぐ雨の様に耀う。  グレゴリオ聖歌の旋律が『新しき訓えを汝らに与えん』から『われら、死への道程半ばに』に移り変わった。  不思議とロビーに客がいなかったことが幸運だった。  ヴィクトリア調に整えられた内装に調度品。  磨き抜かれた大理石の床、曲線を描く円柱、ロビー中央にバラ色の大理石の花台と扇状にレースを重ねる貝殻モチーフの花器。  濃い桃色の八重咲の百合と、白と桃色の二色咲の百合が生けてある。  至近距離にまで迫り、百合の隙間を埋める淡い緑色のカーネーションの存在を認めた時「ドンッ」「バキッ」と鈍い音と振動に続き視界が真っ白に覆われる。  花台に衝突した場所がセンサー付近だった為エアバッグが作動したのだ。  視界を奪われたのはほんの一瞬で、フロントガラスに水と花々が散っている。  螺旋階段が反転した視界に移ろい次に「バリバリ」「バキバキ」「ドン」と先程とはバリエーションの異なる鈍い音が後部座席側から響き、車体が揺れるが素早く開いたエアバッグに衝撃が吸い込まれる。  後部座席から佐々木が飛び出して、助手席のドアを勢いよく開いた。

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