32 / 245
十六話:『想像を絶するほど酷かった』
アクセルとブレーキを間違えたのかと疑った所で、 錦の思考は完全に止まった。
何もかもがスローモーションだ。
先生、と最後まで言葉は結ばず唇から空気が漏れるだけに終わる。
熱を持つように、頭がぼうっとする。
停止した思考では何も考えられない。
視覚と脳の情報伝達に大きな時間差がある様だ。
やけに緩やかに世界が展開する。
――四メートル、三メートル。
ドアマンが慌てて逃げる。
眼前に迫るメインエントランスのドア。
――二メートル、一メートル……。
響く、悲鳴。
激突し、宙を舞い散る硝子破片が煌めく。
雷鳴にも似た破裂音と共に自動ドアとはめ込み式窓を打ち破り、悲鳴と共に車はロビーに侵入した。
加速した車は急ブレーキをかけた事により大きく横滑りする。
若狭がさらにハンドルを切る。
目の前を横切る暴走車に、ベルスタッフが腰を抜かしたようにフロアにへたり込んだ。
藤の花を思わせるシャンデリアが眩しく感じる。
幾重にも吊るされたクリスタル装飾が反射し、降り注ぐ雨の様に耀う。
グレゴリオ聖歌の旋律が『新しき訓えを汝らに与えん』から『われら、死への道程半ばに』に移り変わった。
不思議とロビーに客がいなかったことが幸運だった。
ヴィクトリア調に整えられた内装に調度品。
磨き抜かれた大理石の床、曲線を描く円柱、ロビー中央にバラ色の大理石の花台と扇状にレースを重ねる貝殻モチーフの花器。
濃い桃色の八重咲の百合と、白と桃色の二色咲の百合が生けてある。
至近距離にまで迫り、百合の隙間を埋める淡い緑色のカーネーションの存在を認めた時「ドンッ」「バキッ」と鈍い音と振動に続き視界が真っ白に覆われる。
花台に衝突した場所がセンサー付近だった為エアバッグが作動したのだ。
視界を奪われたのはほんの一瞬で、フロントガラスに水と花々が散っている。
螺旋階段が反転した視界に移ろい次に「バリバリ」「バキバキ」「ドン」と先程とはバリエーションの異なる鈍い音が後部座席側から響き、車体が揺れるが素早く開いたエアバッグに衝撃が吸い込まれる。
後部座席から佐々木が飛び出して、助手席のドアを勢いよく開いた。
ともだちにシェアしよう!