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十九話:『懐かしい香り』

 ミルクかベビーパウダーを思わせる香りが鼻先を掠める。  懐かしい香りだ。  あの人の――……母の香りを思い起こし、何だか安心する。  柔らかく、仄かに甘い香りに胸が温かく満ちていく。  現在、朝比奈 若狭の元で暮らしているが、シャンプーやボディソープなどの日用品は共同で使用することが多い。  しかし、彼の上司が若狭が他の誰かと同じ香りを纏う事を嫌い、別に用意されたのが昔使用していたメーカーだった。  久々に使うそれは、懐かしい香がした。  錦にとっての幸福の象徴ともいえる香だ。  彼が――大好きだと言った香り。  砂糖を入れたミルクを思わせる香りだと、記憶の中の彼は良く錦の髪に鼻先を埋めた。  仄かに花と蜂蜜の様な香りが入り混じると、肌を香った。  ミルクビスケットみたいだと、幸せそうに笑う。  ――実際はライスミルクをメインに洋梨や桃、薔薇に鈴蘭、百合などの花や果実の香りが混ざり合うそれは、過去母の朝比奈 千春が子供と一緒に使うために特別オーダーした代物だった。  計算された香調を演出していた筈なのだが、何の香りなのか言い当てる事など出来ず、最終的には海輝が言うベビーパウダーやミルクのような香りだと錦の中で定着してしまった。  海輝がそういうなら多分正解なのだろう。  海輝。  額に触れる様に、指先が前髪を祓う。  指が離れる。  待ってくれ。  ――海輝。  呟き、髪を整える手を掴んだ。  そして掴めたことに驚く。  夢じゃない。  意識が浮上し目を開く。 「う、……て、る?」 「兄様!」 「……あ?」   手の中のそれは細く頼りない。   錦の知る手とはあきらかに造りが違う。 「さ、らさ……っ」  照明を受けて光の輪を作る髪。  あどけない顔。  草食動物の様な円らな瞳。  小振りだがふっくらとした唇。  声帯が未発達なのか細く幼い声。  ――弟の朝比奈 更紗だ。 「兄様っ大丈夫ですか?」  錦と良く似ているはずなのに全く似ていない顔。  どこか少女じみた雰囲気の弟が安堵の笑みを浮かべる。  そして、何故か左手には呑みかけのレモネードのグラス。  心配そうな表情で錦を覗き込んでくる更紗の後ろから、見知らぬスーツ姿の青年がひょいと顔を出した。 「お加減は?」  最悪だと返したいが、更紗に心配をかける訳にはいかない。  平気だと言い、更紗を見上げる。  見た所、怪我も無く体調も良好に思える。 「更紗、痛い所とか……無いのか?」 「何言ってるんですか?兄様の方が余程危険な目にあってるじゃぁありませんか。ホテルの玄関に車が突っ込んできたと聞いて、まさか兄様が乗せられているとは思いもしなかった。あぁ、兄様の綺麗な顔が真っ青だ。医者っ医者を呼びましょう」 「呼ばなくて良い」  ベッドから起き上がると、眩暈がして立てた膝に顔を埋める。  頭が重くぐらつく。 「錦様、もう少し横になられた方が宜しいのでは」 「問題ない。起立性低血圧だ」 「貧血じゃぁなくて?」 「違う。一時的な血圧低下に伴う脳の血流不足が眩暈を引き起こしているだけだ」  清潔なシーツの感触に「ここはどこだ」とようやく疑問が浮かんだ。  まだ頭に靄がかっている。  ベッドサイドテーブルの時計を確認すれば、時刻は二十一時十五分。  差し出されたグラスを受け取りミネラルウォーターを半分ほど飲むと気分が落ち着いた。  空のグラスを受け取るスーツ姿の若い男が人懐っこい笑顔を見せる。  青年は如月と名乗り、海輝の部下だと簡単に自己紹介をした。  どこか初々しい雰囲気の彼は会社で共に働く部下ではなく、朝比奈家の関係者と付け加える。  年齢は海輝と同じか上だろう。  若狭の部下を見慣れた錦からすれば、随分と若く感じる。

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