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『唯一まともそうなお前が頼りなんだ。』

 若狭は、ただそこに立っているだけだ。  しかし静寂は波紋となり広まる。  数分か数秒かはわからないが潮が引いたように静まり返った。  一瞬にしてあれ程の騒めきが消えた事が、薄気味悪いとさえ感じる。  誰一人動かない。  死んだように、微動だにしない。  羽化したての蝶が羽を動かすのを見る様に、静かに息をひそめて若狭を見る。  錦以上に彼を見慣れているだろう、部下でさえ時を止めた。  若狭はボンネットに散る百合の花を摘まみあげて、物憂い気な表情を浮かべる。  百緑色の紗織りの薄物は、重ねて身に着けた白い襦袢が透けて清涼感がある。  錫色の紗の羽織の袖や衿下が、若狭の動きに合わせて薄羽の様に揺らめく。  どこか、浮世離れした雰囲気があった。 「八重咲の百合は珍しいですね――可哀想に」 「何が可哀想だ。貴方の所為じゃないか」  シャンデリアの下で淡く浮き出ているようだ。  柔らかな真珠の肌。  艶やかな絹糸の髪。  澄んだ宝石の瞳。  鈍色がかった榛色の髪と、琥珀色の瞳が室内の光を反射し柔らかく光沢を湛える。 「おい、しっかりしてくれ。何時まで見惚れてるんだ。見慣れてるはずだろうが」  佐々木を小突く。  今は関係者の中で唯一まともそうなお前が頼りなんだ。  周囲の時間は止まったままだ。  ――見惚れると言うより、魂を抜かれたような有様だ。  畏怖を与える程の類稀なる美貌と、無謀な運転と事故を目の前で見た衝撃と、脳がどちらの刺激に反応して良いのか判断できないのだろう。  一次的な思考回路の混乱だ。  すでにホテル側が警察に連絡をしているはずだ。  もうしばらくすれば正常な形でもって騒ぎは沈静化するだろう。 現場検証をせねばならないからと、破壊したインテリアはそのままに 取り敢えずはロビーの椅子に移動するよう声を掛けられる。 「しかし、不謹慎な事を言うが、人がいなかったのが不思議なくらいだ」  ロビーラウンジの端から無様な姿のまま放置されたメルセデスを眺め投げやりに言う。 「前もって先に到着した部下に、若狭様がスムーズに駐車できるように指示しておきました」  部下の一人が、眼鏡のブリッジをくいっと上げて得意げに錦の疑問に答える。  若干、言葉に誤りがあるようだが、前もって宿泊客たちの避難誘導をしたというのだ。  そんな事をするくらいなら、若狭を止めてくれ。  異様なほどに若狭を神聖視している部下の笑顔に脱力した。

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